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2011年 06月 13日
「悪人」は小説と映画、二つの間にほとんど違和感が無い。 もちろん、小説の方が(単行本にして400ページ以上あるので)細かな描写やエピソードに優れ、たとえば祐一がヘルスの女へ入れあげる切ないシーンや、子供の頃母親に桟橋に置き去りにされるシーン、その母親に青年になってから金をせびるのは実は逆の思いからだった、など幾つかの重要な話は映画では抜け落ちているのだが、それほどの違和感を残すことなく2時間という物語の枠に上手に収まっている。 それは小説の作者である吉田修一が映画の脚本にも参加し、両者を巧みに同化させながら綻びを最小限に抑えているからなのだが、それ以前に小説自体が映像的で、映画を意識したようなカット割り(構成)で描かれているからでもある。 この小説は芥川の「薮の中」とどこか似ている。その形式を借りていると言ってもいい。 ということは、映画は黒沢の「羅生門」に似ている、ということになるのだが、「羅生門」ほど多面的な構成ではなく、むしろ最初から主人公の祐一と、一緒に逃避行する光代にフォーカスが合わされるのを想定しながら描かれている。そしてその心情をあぶり出すために多くの登場人物の内面も詳しく描かれ、それらが交錯しながら物語は進んでいく。 やがて映画はラストの灯台でのクライマックスシーンを迎え、そこでの数日間の出来事を永遠の時間へ昇華すべく多くの映像的努力がなされるのだが、小説の方は意外とさらっとしている。祐一が捕まるシーンは(フランス映画のように)ニュアンスだけで、詳しく描かれてはいない。 その後、映画は光代の短い言葉と回想シーンで終わるのだが、小説の方は、ヘルスの女と祐一の友人の謎解きのような述懐を経て、祐一と光代の、すべての出来事をもう一度曖昧な霧の中に戻すような述懐があり、不思議な余韻の内に終わる。 読み終わって、小説の方が祐一の優しさがより伝わって来ることに気づく。 妻夫木聡の演技が下手だと言っているのではない。むしろ彼は健闘し、ほぼ小説に近い祐一像の造形に成功しているのだが、小説の方が祐一の心情や人柄を忍ばせる多くの人の述懐が散りばめられているので、それらが終盤になればなるほどジワジワ効いて来て、悪と正義の境目が消えて行き、聖性さえ漂い始めるのだ。 ここに至ってタイトルの意味は逆転する。 私達は誰もが祐一になる可能性を秘めている。 ある種の誤解や偏見が増幅することによって、思わぬ事件が発生し、思わぬ人生にさらされる危険性は日常生活の中に幾つでもある。 TVや新聞の報道は一面的なことしか伝えていない。 その裏には幾つもの深い真実がある。 それらをきちんと理解できる人間でいたい。 標語のような言葉をただ大合唱するだけの腐った人間にはなりたくない。 かずま
by odyssey-of-iska2
| 2011-06-13 18:49
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