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2015年 05月 08日
ドキュメンタリーと映画の境い目を考えていたら、サタジット・レイの「大地のうた」('55)をもう一度観たくなった。 この映画は岩波ホールで以前観たことがあるが、徹夜明けで途中で眠くなり、一部が記憶から抜け落ちている。 で、一念発起し、5月の連休はオプー三部作(「大地のうた」('55)「大河のうた」('56)「大樹のうた」('59))を借りて観た。 「大地のうた」は3年の歳月をかけてつくられたレイの処女作で、インド・ベンガル地方の小さな村の一家の物語だ。ほとんどの俳優が無名もしくは素人で、インドのモンスーン気候の自然がきめ細かく捉えられ、初めて観た時はドキュメンタリーの香りがした。 だが、今回改めて観ると、やはり物語の要素は強く、レイの視点も改めて感じる。 好きなシーンはいくつもあるが、とりわけ幼いオプーと姉のドゥルガが背丈よりも大きいススキ野原を駆け抜けて蒸気機関車が走るのを見に行くシーンは好きだ。列車の猛烈な音とその車輪越しに二人を捉える映像は迫力があり、レイの才気を感じる。 また、蓮池のほとりで雨の中ドゥルガが長い髪を振り回しながら踊るシーンも素敵だ。 だが、自然に帰るように亡くなった親戚の老婆だけでなく、この時引いた風邪が原因で若いドゥルガも死んでしまう。 台風で家も壊され、良いことのほとんどなかった村を両親とオプーは牛車に揺られながら去る所で第一部は終わる。 「大河のうた」は三人がベナレスに着いて生活を始める所から再び始まる。 いきなりガンジス川のほとりにあるガート(大階段の沐浴場)やそこに佇み遠くを見つめる老婆が映され、インド特有の空気に引き込まれる。 父が経典を唱えて得るわずかなお布施で暮らしていた三人だが、その父も肺炎で亡くなり、母とオプーは叔父の住む小さな村へ移り住む。オプーの学問の才能に気づいた校長の計らいでオプーはコルカタ(カルカッタ)の大学へ行けることになるが、母は反対する。だが、結局は折れてオプーはコルカタへ移り、印刷所で働きながら大学へ通う。次第に疎遠になる母と子の絆。この辺りの母親の寂しさと諦念は観ていてひしひし伝わってくる。 だがその母も病いで亡くなり、悲嘆にくれながらオプーは村を去る所で第二部は終わる。 第一部、第二部はインドの自然とそこに住む人々がそのまま淡々と描かれているが、第三部はオプーの人生とその物語に焦点が合わされ、より深い人間ドラマとなっている。 「大樹のうた」はオプーが大学を辞めて社会に出る所から始まる。と言っても父と同じで、もの書きを目指した生活は楽ではなく、心配した級友のプルーが訪ねてくる。そして従妹の結婚式にクルナに行こうと誘う。そしてある偶然からオプー自身がその美しい従妹オプルナと結婚することになる。 このオプルナ役のシャルミラ・タゴールが本当にすばらしい。美人で可愛いだけでなく、気品がある。 裕福な家庭で何不自由無く育ったオプルナは貧しいオプーの家へ来て初めて一人泣くが、以降はオプーを気遣い、気丈に振舞う。それに気づき、後悔していないかと尋ねるオプー。 この辺りの会話がとてもいい。 「探してくる。使用人を」 「待って。バカなことしないで」 「どけよ」 「お金がかかるわ」 「家庭教師を増やす」 「なら、実家に返して」 「なぜ?」 「今でさえ夜遅いのに、これ以上増やすなんて」 「しかたない」 「逆にして。お仕事減らしてくれない?」 「どうして?」 「そうしたらあなた早く帰ってくる。私、“後悔“しなくてすむわ」 こんなことを言われたら、男ならみんな参ってしまうだろう。 朝の目覚まし時計を止めようとしたら二人の夜着が結ばれてて動けず、ほどきながらいたずらしたオプーをポカリとやるオプルナ。 そのオプーがニンマリしながらベッドでタバコを吸おうと箱を開けると、中から出てくる「食後1本ずつ、約束よ」のオプルナからのメッセージ。 オプーが帰ってくるのを確かめると、紙風船を膨らませ、まちぶせしてパーンとやるオプルナ。 食事は代わりばんこに団扇を扇ぎながら涼を取り食べるオプーとオプルナ。 オプルナに英語を教えながら微笑むオプー。 荷馬車の中の二人の会話、着いた駅での二人の会話。 オプルナからの手紙を読みながら思わず微笑むオプー・・・ こんなに楽しげな結婚生活を描いた映画を私は他に知らない。 それがカースト制や男尊女卑の風習がまだ色濃く残っていた時代のインドで撮られたことに驚きを禁じ得ない。 レイの女性や子供に向けられた人間性と愛情、先見性に心を打たれる。 だからオプルナが男の子を早産したために亡くなったことを聞いた時のオプーの悲劇に余計呆然とする。 作家になる夢を捨て、放浪の旅ヘ出るオプー。 地方を転々としながら挙げ句の果ては炭鉱夫にまで身をやつす。 それを聞いて心配し、子供に会うようオプーを説得するプルー。 だが、会っても5年の歳月の親子の空白は埋まらない。 最後はその別れのシーンだが、ここで親子の間に微妙な化学反応が起こり、初めて心が交わる。 「何だい?カジョル」 「おじさん、だれ?」 「君の友達・・・ 一緒に来るかい?」 そして我が子のカジョルを肩車し、微笑みながら二人は歩き始める。 この物語の始まりはオプーが生まれるシーンだった。最後でオプーは見事にカジョルと重なり、その営みは輪廻のように受け継がれて行くことが暗示される。 多くの人の死が描かれているが、その死さえもこうした輪廻の一部に過ぎないと言ってるかのようだ。 インドの自然と共に、人物の光の陰影の濃い映像が印象的だ。 バックに流れるラビ・シャンカールのシタールの音色はガンジスの流れのようだ。 今の浅薄な時代ではもうけしてつくることのできない骨太な映画で、多くの人に観てもらいたい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2015-05-08 17:08
2015年 04月 12日
先日、親友のSから早い誕生日プレゼントで「永遠のハバナ」('03)のDVDを貰った。 原題は「Suite Habana」(ハバナ組曲)で、ハバナの音楽ドキュメンタリーと言えば「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」('99)だから、少し期待して観た。 結果は、さりげない日常を描いているが、作為的な映像(顔のアップや、意図的な構図)が多いので、ドキュメンタリーというよりはある種の映像詩と言った方がいいかもしれない。 観ていて、もっと作為のない、不思議な映像詩を思い出した。 ヴィクトル・エリセの「マルメロの陽光」('93)だ。 この映画は実在の画家アントニオ・ロペス・ガルシアが庭になるマルメロの樹を1990年の9月から12月まで写生する姿を淡々と撮った、ドキュメンタリーのような映像で、彼の妻でもある画家のマリア・モレノ、娘のマリアとカルメン、友人の画家エンリケ・グランも登場し、その会話や素振り、アトリエの改修工事の音など、すべてが日常性の中に溶け込んでいて、どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが打合せをして撮られた映像なのか、さっぱりわからない不思議な映画だ。鉛筆がキャンバスを滑る音や風が木陰を抜ける音が聴こえ、映像は一見単調だが繊細で美しい。 結局、今年もマルメロの実は熟して腐ってしまい、画家はそれを写し取ることを断念し、妻の絵のモデルになり、そして眠ってしまう。翌年の春、マルメロの樹は新春の光の中で再び実を実らし始める。 実はこうしたことを毎年繰り返しながら画家はその対象へ少しづつ迫っていくのだが、それが淡々と描かれているので、その絵がいつ完成するのかは誰もわからない。 実際のロペスの絵もそうで、20年以上掛けて完成した絵もあるというのだから驚く。 これは監督のエリセにも言えて、彼は「10年に1本しか撮らない映像作家」と言われてきたが、実は長編第3作目のこの映画を撮ってから22年間長編映画を撮っていない。 たぶん、ロペスとエリセは悠久の時間の中を生きていて、「なぜそんなにあわてて不完全な真理でもないものを世に出すのだ?」と言ってるのかもしれない。 この映画を観ていて、手を加えることを最小限に押えることで逆にオリジナルなアートとして成り立たせている作品を他にも思い出した。 たとえば、音楽ではリュック・フェラーリの「Presque rien」(ほとんど何もない)('70)だ。 これは正確には「Presque rien No. 1 ‘Le Lever du jour au bord de la mer’」(ほとんど何もない 第1「海岸の夜明け」)と言い、ユーゴスラビアの海辺で録音した音だけで構成された環境音楽だ。 最初はほとんど何も聴こえないが、やがて人の話し声や何かのぶつかる音が聴こえ、船のエンジン音がそれにかぶり、さらに蝉の鳴き声がかぶり、それに人の話し声や歌声が再び加わり、最後は蝉の鳴き声だけが壮大に響いてふっと終わる。21分に渡る海辺の日常を捉えた音楽(というか音の情景)だ。 アートではリチャード・ロングの仕事が浮かぶ。 ロングは自然の中を歩いて自分の足跡や、現場に落ちている石や木々を用いてささやかなモニュメントをつくり、それを写真に撮って自分の旅の痕跡を記録する。モニュメントは言われないとわからないほど自然と同化していて、やがて時間と共に自然に還っていく。 彼の作品はアース・ワークと呼ばれるが、それはある意味とても東洋的で、現代社会の過剰な消費文明への警鐘を鳴らしているかのようだ。 これらを建築に当てはめ、その究極を追いかけていくと、最終的には「デザインしないデザイン」「つくらないつくりかた」ヘ行き着く。果してそれが平和な世界なのか、不幸な世界なのかは私もわからない。 エリセの作品は最初に観た「ミツバチのささやき」('73)から常に静謐で内省的で、観終わった後、いつも深く心に残る。 果して「マルメロ…」の次の長編映画を彼が撮るのか撮らないかはわからないが・・・その先にどんな映画が待っているのか、果してそれは平和な世界なのか、不幸な世界なのか、ファンとしてはどうしてもそれを観てみたい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2015-04-12 23:31
2015年 03月 05日
これまでで一番多く観た映画俳優は誰かを以前調べたことがある。 てっきりデ・ニーロだとばかり思っていたら、ジャック・ニコルソンの方が一つ多かった。 ジャック・ニコルソンは「イージー・ライダー」('69)以来アメリカン・ニューシネマの常連で、(私はニューシネマを多く観たから)当然と言えば当然なのだが、別にニコルソンが好きで観ていたわけではないので、少し意外な気がした。 (あのアクの強い演技と怖い目、嫌な性格から、むしろ嫌いだった) だが、一つだけムチャクチャに彼を好きになった作品がある。「カッコーの巣の上で」('75)だ。 誰とも違うニコルソンの、けして群れず、何者にも迎合しない魅力が全開している。 そしてニューシネマのヒーローの決定版を創り出している。 物語はある精神病院に一人の男が送り込まれて来る所から始まる。 彼の名はマクマーフィ(ニコルソン)。刑務所での労働が嫌で、働かずに刑期を終えるために精神異常の振りをしているだけなのだが、病院内のスポイルされた患者達の姿を見て驚く。元凶は病院を支配するラチェッド婦長。(演じるルイーズ・フレッチャーが見事な敵役で最高だ) マクマーフィの反抗心がムラムラと燃え上がり、二人はことあるごとに衝突する。 中でも私の一番好きなシーンは、管理主義者のラチェッドのために観れなくなったワールドシリーズを、映ってもいないのにTVの前でマクマーフィが熱く架空実況中継し始めるシーンだ。その興奮ぶりに仲間達もおずおず出て来て一緒に興奮し、はしゃぐ。 想像力が自由の束縛に打ち勝つ瞬間だ。観ていてとても清々しい気持ちになる。 病院のバスを乗っ取り、仲間達を乗せて港から船に乗り、沖で釣りをするシーンも爽快だ。そしてこの時の全員のはしゃぎぶりも凄い。 だが、こうした行為でラチェッドはマクマーフィを病院から無期限に出られないようにする。そしてタバコのいざこざでの反抗を理由に彼に電気ショック療法を施す。マクマーフィもそこから脱出する決意をする。 この時、それまでずっと聾唖者を装って世間との関わりを絶ってきたインディアンのチーフ(図体はデカいが目はきれいだ)が、マクマーフィにだけその秘密をばらすシーンは印象的だ。彼の出現は患者達の心に化学変化をもたらし、皆は覚醒していく。 脱出の夜、マクマーフィは仲間達を集めて乱痴気騒ぎを催す。 (そのままズラカってればすべては成功で、マクマーフィも自由を得るはずだった!) だが、可愛がってたビリー(ブラッド・ドゥーリフの繊細な演技は心に残る)が女友達のキャンディを好きなのを知り、二人を遂げさせる。 酒に酔って寝てしまった一行は翌朝、ラチェッドらに見つかり、厳しい叱責を浴びる。そのため傷ついたビリーは自殺する。マクマーフィはとうとう爆発してラチェッドの首を締め、殺そうとするが、失敗する。 ラストはとても心に残る。 夜間、戻って来たその哀れな姿を見て驚き、そっと抱きしめるチーフ。 そして彼の意志を受け継ぎ、 「こんな姿のまま残しては行かない。一緒に行こう。行くぞ!」 と言って、廃人のマクマーフィを枕で窒息させ、かつてマクマーフィが持ち上げられなかった重い水飲み台を持ち上げて窓をぶち割り、脱出に成功する。 この映画はいろんな解釈ができる。 精神病院は社会の縮図で、そこに暮らす人々は我々に過ぎないとか、反体制派は体制派に勝つのではなく、たまたま運のいい奴だけがそのおこぼれにあずかるだけだとか、結局、体制に順応して上手にガス抜きしながら生きた方が得だとか、人それぞれだ。 だが、若かった私はこの映画から決定的な影響を受けた。 それは自由への希求だ。 自分を束縛するものとは徹底して戦う、そして生涯それを続けよう、そう思った。 監督のミロス・フォアマンはユダヤ系チェコ人で、幼い頃、両親をナチスに殺された。 チェコで若き才能ある監督として認められた頃この作品の映画化を持ちかけられたが、当局の監視下にあり実現しなかった。その後、チェコ事件でアメリカ亡命を余儀なくされ、幾多の試練を経た後やっと実現した。話があってから13年後のことだ。 この作品には彼のそうした人生も深く投影している。 マクマーフィは死んだが、彼の意志は今も生き続けている。 かずま
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by odyssey-of-iska2
| 2015-03-05 19:46
2015年 01月 31日
特に男の場合はそうで、(最初から観ているせいもあるが、)ダスティン・ホフマンーアル・パチーノーロバート・デ・ニーロのラインはメチャ好きだ。 この3人はアメリカン・ニューシネマの代表的な俳優だから(同時代を生きた人間として思い入れも肩入れも激しいのは仕方がないとして、)実際、彼らの映画はどれもがおもしろかった。 ダスティン・ホフマンは「卒業」('67)の主人公ベン役のスクリーン・テストで失敗したが、監督のマイク・ニコルズが「彼にはSomethingがある」と言って採用したのは有名な話だ。Somethingどころか、すべてがあったとしか思えない程の活躍をその後していく。 アル・パチーノはダスティン・ホフマンをさらに鋭角的にしたような感じで、ほぼデビュー作の「哀しみの街かど」('71)以来多くの作品を観た。 「スカーフェイス」('83)「カリートの道」('93)「ヒート」('95)も悪くはないが、デビュー作から上り詰めて行く頃の「ゴッドファーザーⅠ、Ⅱ」('72、'74)「スケアクロウ」('73)「セルピコ」('73)「狼たちの午後」('75)がやはり好きだ。 デ・ニーロはそのアル・パチーノをさらに過激にしたようなタイプで、「ミーン・ストリート」('73)以来その尋常ならざる演技と徹底した役作りは有名だ。演技派俳優の筆頭格となってから既に久しい。 (ちなみに、デ・ニーロとアル・パチーノが初めて共演した「ヒート」では、悪役ながら最期に仁義を貫き死んだデ・ニーロが得し分はあるが、パチーノも”らしさ”は出ていて健闘している) 「セルピコ」は封切り当初観客数が伸び悩み、失敗作と言われた。 だが、それを観た私は「どこが失敗作なんだよ!」と憤然とした。 確かに警察内部の腐敗と汚職を暴いた作品で、楽しい作品ではない。だが、パチーノの演技は最高だ。役にのめり込み、セルピコ=アル・パチーノで、迫力がある。特にロマンと正義感溢れる目は印象的で、実際、見終わった後、パチーノ以外の俳優の顔は浮かばない。それ程この映画は主人公一人にスポットが当てられた珍しい映画で、社会派監督のシドニー・ルメットはひたすら正攻法でその人生をあぶり出していく。 映画は銃で撃たれたセルピコが病院に搬送されるシーンから始まる。 その姿に「俺はセルピコを撃ち殺したいと思っている警察官を6人知っている」という上司の言葉がかぶり、セルピコが警察学校を卒業して希望に満ちてニューヨーク市警に入る回想シーンへプレイバックする。だが、配属された部署は賄賂と腐敗の巣窟だった。潔癖感の強いセルピコは金を受け取らず、それにより立場は危うくなる。周囲の警察官から嫌悪で見られ、部屋には盗聴器も仕掛けられる。私生活は壊れ、恋人とも別れる。(このシーンは観ていてせつなく思わず涙が出る) だが、セルピコはひたすら孤高の道を歩む。腐敗を摘発し、その代償に最も危険なブルックリンの麻薬地帯へ配属される羽目になる。そしてあのシーンだ。 セルピコは辛くも一命を取り止め、公聴会ですべてを話して終え、職を去る。 最後に「今、セルピコはスイスで静かな余生を送っている」というテロップとミキス・テオドラキスの穏やかで哀歓漂うギリシャ風の曲が流れ、映画は終わる。 今の人はこの映画を観て何を思うだろう。 セルピコの愚直な生き方を見て、なんて馬鹿な奴だと思うのだろうか。 空気の読めないアホと感じるのだろうか。 もっと楽して、周りと上手くやりゃいいのにと考えるのだろうか。 だが、二十歳になるかならないかの私は一人で戦うセルピコを観ていたく感激した。 その思いは今もどこかに残っている。 アル・パチーノはこの映画で私の英雄となった。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2015-01-31 20:44
2014年 12月 17日
長崎で生まれたせいか、異なる文化の入り組んだ複雑な味のする街が好きだ。 特にヨーロッパとアジアの両方の匂いと香りのする街が好きだ。 だから私はイスタンブールに深く憧れる。 この憧れをさらに強くしたのは学生時代に観た「ミッドナイト・エクスプレス」('78)だ。 冒頭に流れる、モスクと湿ったボスポラス海峡にたなびく、くすんだ(少し緑がかった)灰色の光景にひどく魅了された。 私はそれをイスタンブールカラーと呼んで、それはボスポラス海峡の湿った空気がもたらす自然現象なのだろうと勝手に想像していた。(が、それから6年程して実際に現地を訪れ、単なる車の排気ガスと船の出す黒煙で空気が汚れて色が変わっただけの話だと知り、ゲンナリした) この「ミッドナイト・エクスプレス」はそれほど世評は高くないが、記憶に残る映画だ。というか、怖くて忘れられない映画だ。たぶん、私の観た映画の中では怖い映画のベスト5に入るだろう。 主人公のアメリカ人の青年は出来心から麻薬を国外へ持出そうとしてトルコの空港で捕まり、刑務所に入る。そこで幾多の理不尽な扱いを受けながら最後に脱獄に成功するという実話を元にした映画だが、始めから終わりまで緊迫感のある映像が続き、主人公と同様、私自身何度もひどい目にあったような気がして、塀の外へ脱出できた時にはホッとした。 途中のグランバザールを逃げまどうシーンや、浴場の天井のガラスブロックから光が降ってくるシーンは、その魅力的なくすんだ色と共に今でも憶えている。 次に思い出すイスタンブールの映画は、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」('99)だ。 この映画はルコントの作品の中では一番好きな映画だ。モノクロで雰囲気があり、ストーリーに弛みがない。主演の二人(ヴァネッサ・パラディとダニエル・オートゥイユ)は共に魅力的で、特に美人でもないのになぜだかヴァネッサには惹かれる。 この二人が最初に出会うのはセーヌ川の橋の上だが、ラストシーンはイスタンブールだ。 このラスト以外はほとんど夜のシーンで(バックは黒で)緊迫感があるのだが、ラストだけはモスクを背景にボスポラス海峡を走る船上の昼間のシーンで、それにイスラムの音楽がダブり、少し違和感がある。 ルコントの映画は「仕立て屋の恋」('89)や「髪結いの亭主」('90)でも、なぜだか知らないが、どこかトルキッシュな、エキセントリックな香りがする。誰か理由を知る人がいたら教えて欲しい。 「愛より強く」('04)は偶然TUTAYAで見つけ、予備知識無しに観た。が、おもしろかった。 ハンブルグとイスタンブールが舞台で、前半は「ベティ・ブルー」と見紛うかのように激しくクレイジーな展開で「動」なのだが、後半は反対に内省的な「静」の世界が続く。 妻を失い自暴自棄になって自殺未遂を起こした40男が、美しい若い女から「イスラムの古い仕来りの家庭から逃れたいので偽装結婚して欲しい」と持ちかけられ、同意し、同じアパートで暮らし始める。 始めはありえないような話だったのがやがて真実味を帯び始め観客を引込む、というのは映画作りの常套手段だが、この映画はそれに成功している。 男はやがて女を愛するようになるが、女は夜な夜な違う男と遊び、自由を満喫する。そしてある晩、ふとした弾みで男は別の男を殺してしまう。 刑務所に入ることになった男と一族から離縁された女。 女は初めて男を愛するようになる。 ここから舞台はイスタンブールへ飛び、酒やドラッグや殺傷事件など重苦しい雰囲気になる。やがて男は出所し、女を追ってイスタンブールへやってくる。そして出会い、初めて結ばれる。だが、女には子供と家庭があった。そして最後は・・・ デ・ニーロとライザ・ミネリの「ニューヨーク・ニューヨーク」と同じ結末で、ほろ苦い人生の味がした。 主人公の一人シベルを演じるシベル・ケキリは適役で、度胸がいい。 対するジャイト役のピロル・ユーネルは、最初はドブネズミか野良犬のようにしか見えず、本当にこんな奴にこんな美人が?と思わせる所がかえっていい。(実際、演技はとても上手で、次第に共感するから、最後にほろ苦さを一緒に噛みしめるのだ) 監督のファティ・アーキンは初めて観たが、この作品でベルリン映画祭金熊賞に輝き、世界へ飛び出していった。 他の出演者も含め、ほとんどがトルコ系ドイツ人で、だからイスラムの家系の複雑さや仕来り、風俗風習、音楽などイスラム色が強く出ていて、イスタンブールを旅していた頃を思い出した。 またこういう映画があったら観てみたい。 イスタンブールは過去の街ではなく、これから何かが生まれる街だから。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2014-12-17 23:47
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