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2023年 08月 31日
不思議な映画だ。 その思いは、今から40年前にこの映画を初めて観た時以来変わらない。 戦争映画なのに、戦争シーンが一つも出てこない。そして登場人物は皆、男だ。 似たような戦争を扱ったもので女が出てこない映画に「アラビアのロレンス」がある。だが、あの映画には有名なアカバの戦闘シーンがあり、砂漠のせいか明るい印象がある。一方、この映画は1942年のジャワ島の日本軍俘虜収容所が舞台で、もちろん物語の展開はそれなりにあるのだが、どこか静かで、夜のシーンが多く、深い黒の印象がある。 極め付けは監督の大島渚だ。大島渚といえば、どこかセンセーショナルで政治的、社会的作品が多いが、この映画はそれらとは一線を画し、どこか内省的で、敵味方に分かれ、人種や習慣、立場の違いはあっても、通じあう普遍的な人間の内面に焦点が当てられている。 (つづく) Odyssey of Iska 150-0001 渋谷区神宮前2-6-6-704 tel. 03-5785-1671 #
by odyssey-of-iska2
| 2023-08-31 20:35
2022年 11月 02日
2月にロシアがウクライナ侵攻を始めて以来8ヶ月が過ぎた。 第1次、第2次世界大戦で戦争がいかに馬鹿げた行為であるかは散々学んだはずだと思っていたが、懲りずに再びこんな愚かな行為を繰り返すことに衝撃を受けた。 世界中の元首は、元首になったら、アウシュヴィッツで一週間過ごしたらよい。 アラン・レネのこの作品は、発表当時、カンヌ国際映画祭に出品されたが、西ドイツの要請でコンペティション部門外で上映されたらしい。戦後まだ間もない頃で、ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所を扱ったこの映画は、さすがにドイツ国民には強烈過ぎたのだろう。 だが、実際観ると、ナレーションは声高ではなく詩的で、映像も戦争当時のものはモノクロ、それから10年後の現在はカラーで、対比的で客観性を帯び、どこか淡々としている。その分、普遍性を獲得し、今の眼で見ても、わずか32分の作品なのに、十分過ぎるくらい強いメッセージが伝わってくる。 私はこの映画を観るまで、アウシュヴィッツ強制収容所のドキュメンタリーを見ても、歴史の悲惨な事実だとは理解してても、この建物の建設に当然ながら建築家が関わっているという認識は欠落していた。 ところが外壁のレンガや内部の寒々とした内装、家畜を収容するかのようなレンガの衝立と木の3段ベッド、コンクリート穴の開いただけのトイレ、ガス室の図面に慄然とするとともに、職能意識が逆なでされ、我が事のように感じられ始めた。 果たして私はこのような状況下でこのような仕事を受け入れただろうか。 知らなければやったかもしれないが、知った後でもやっただろうか。 私は一体どういう行動をとっただろう・・・ 映画は最後にこんな言葉で終わる。 カポ(囚人看守)も将校も言う 「命令に従っただけ」「責任はない」 では、責任は誰に? 戦争は終わっていない 火葬場は廃墟に、ナチは過去となる だが、900万の霊がさまよう 我々の中の誰が、戦争を警戒し、知らせるのか 次の戦争を防げるのか 今もカポが、将校が、密告者が、隣にいる 廃墟の下に死んだ怪物を見つめる我々は 遠ざかる映像の前で、希望が回復した振りをする ある国の、ある時期における、特別な話と言い聞かせ 消えやらぬ悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる 同じことがその後も何度も繰り返された。 もう一度、この言葉を我が事として噛み締めたい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2022-11-02 20:14
2022年 06月 20日
ロシアがウクライナに侵攻して以来、毎日、ニュースを見てしまう。 そして、ウクライナの都市が理不尽に攻撃されている様を見ると、胸が痛くなる。 こうしたバカなことは、天変地異でも何でも良いから、早く終わらせてくれて、ウクライナの人々に平穏な生活が戻ることを切に祈る。 (こうしたバカなことを企んだ者には天罰が下されるとよい。もちろん、ロシア人にではない。彼らを恐怖政治や言論統制で支配している為政者にだ。) この愚かな侵攻が始まって以来、気になっていた映画を三十数年ぶりに観た。 ロッセリーニの「無防備都市」('45)だ。 以前観たのは、ゴダールやトリュフォーらヌーヴェルヴァーグの監督たちが、一番影響を受けたのはロッセリーニだと言ったからだが、今回はもちろん、ウクライナの悲惨な状況がダブって思えたからだ。おかげで、当時は関心がなかった「戦火のかなた」('46)や「ドイツ零年」('48)まで観てしまった。 これらの映画は確かにそれまでのヨーロッパやハリウッドの映画とは違う。 戦時下や戦後間近でフィルムや機材、現像液が満足に手に入らなかったせいか、露光は不安定で、アレ・ブレ・ボケが随所に目立つ。だが、そんなこと以上に、戦時下、戦後の生活や人間の尊厳の核心に迫ろうとする力が圧倒的で、ぐいぐい引き込まれる。特に「無防備都市」は傑作だ。 この映画は容赦がない。 ムッソリーニ失脚後のイタリアはナチスドイツに占領され、首都ローマではそれに反対するレジスタンス運動が盛んだったが、レジスタンスに参加した人やそれを応援する人々がこの映画では次々と死んでいく。 ヒロインと思われたピノ(アンナ・マニャーニ)は結婚式の日、ナチに連れ去られる恋人のフランチェスコを追って、呆気なく射殺される。 そのフランチェスコにかくまわれていたレジスタンスの指導者マンフレーディも通報でゲシュタポに捕まり、凄惨な拷問の末に息絶える。(このシーンは今観ても過激で、R指定ものだが、どこかキリストのイメージとダブルのは私だけだろうか) 最後はレジスタンスを陰で応援したピエトロ神父が銃殺されるシーンで終わる。 だが、この映画には愛がある。 それはピノと息子マルチェロの日常の何気ない会話であったり、ピノ亡き後にマルチェロがフランチェスコに「パパ、持ってって、ママのだ」とマフラーを渡すシーンであったり、子供たちとピエトロ神父がサッカーに楽しく興じるシーンであったり、神父が店で待たされる間にキリストと裸婦像を恥ずかしそうに反対側に向ける微笑ましいシーンであったり、神父が銃殺される時に銃殺隊は銃身を下げて神父ではなく地面を撃って砂煙が上がるシーンであったり・・・ この映画の中で一番心に残る言葉は、 ゲシュタポのクラブで酔ったドイツ軍将校が言う次の言葉だ。 「俺たちは殺して殺して殺しまくった、ヨーロッパ中でだ。 この戦争は必然的に憎悪を産む。 俺たちが憎悪の的になる。 憎悪に囲まれて希望はない。 俺たちは絶望の中で死ぬんだ。絶望だ」 戦争の本質を語っている。 戦争に勝者は無いのだ。 敗戦後のベルリンで貧困の中、健気に生きる少年が、病気の父親を毒殺し、彷徨の末に廃墟のビルから飛び降りる姿に愕然とした。 ロッセリーニは映画で観る者の心を深く切り裂いた。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2022-06-20 19:53
2021年 10月 02日
映画を観たくなる時というのは人によって違う。 私の場合はものつくりなので、ただ単に楽しむために観るということはほとんどない。たとえそうだとしても、観てるうちに自然とつくり方を見てしまう。そしてつくり方が強調され過ぎたり、あざとかったりするとすぐ興醒めしてしまう。 また、最近の映画のように、やたら詰め込み過ぎて展開も早く、時間も長いと疲れてしまう。やはりある程度、内容を噛み砕くだけの時間とそれにあったテンポ、そして構成は必要だ。 映画づくりは難しい。 この映画は前から知っていた。だが、観なかった。 タイトルや解説でなんとなく想像がついてしまうからだ。(この邦題は最悪だ。「Intouchables」が「最強のふたり」なんて!) 創造や想像を楽しむために観る映画が、最初からなんとなくわかっていたのでは魅力が半減してしまう。だが、実際観てみると、予想以上によかった。 先ず冒頭の夜のドライブシーンがいい。 乱暴な運転でパトカーに追いかけられると二人で賭けをする。一旦捕まるが、更に賭けをして嘘の演技でまんまと警官を騙し、EW&Fの「September 」をかけて得意になって二人で歌い出す。それにかぶるオープニングタイトル。 この遊び心とスピーディーな展開はフランス映画とアメリカ映画のいいとこ取りだ。 そしてこの二人、貧民街で育ち、雑で素行の良くない黒人青年ドリス(オマール・シー)が、大金持ちだが脊髄損傷で車椅子生活のフィリップ(フランソワ・クリュゼ)と出会い、その世話をすることになった経緯が、ちょっとキツイジョークも交えながら、だがサバサバした感覚で描かれる。(日本映画ならもっとウェットでシリアスになってしまいそうだが、この辺りはさすがだ。また、日本だと差別用語云々の抗議がすぐに来そうだ) フィリップは自分を障害者としてでなく、一人の人間として対等に接するドリスに好意を持ち、信頼を深めていく。ドリスも自分を曲げることなく、そのままの姿でフィリップや周りの人と接する。その化学反応が劇的効果をもたらすのが、フィリップの誕生日の退屈なクラシックコンサートの後に、EW&Fの「Boogie Wonderland」をかけてドリスがキレキレのダンスを踊るシーンだ。そしてドリスの求めに応じてフィリップのためにみんなが弾けてダンスを踊るシーンだ。それを見ながらウキウキするフィリップ。この映画で一番印象的なシーンだ。 これがワンテイクで撮られたとは・・・凄い‼︎ その後も二人はパラグライダーに乗って大空を飛んだりして友情を深めていくが、やがてドリスの家庭の事情を知ったフィリップは彼を実家へ返す決断をする。 新しく世話をすることになった(如何にも介護役らしい)介護人とウマが合わず、調子を崩すフィリップ。そして駆けつけたドリスと(冒頭のシーンを経て)二人はダンケルクに向かう。そこでフィリップの文通相手とのデートを仕組んだ後、彼女が来るのを見計らって去るドリス。 この時のオマール・シーの去り際の微笑みがたまらない。 淋しさと温かさの入り混じったラストだ。 これは実話を元にした映画だが、本当はもっとシリアスで大変だったろう。 それをフランス映画らしく、ユーモアとエスプリに包んで、ある種のファンタジーにまで昇華させた。 アフリカ系黒人の貧富の問題、多様性、介護する者とされる者との心の捉え方の差異など、感じるものはたくさんあるが、特に二人の車椅子姿を見ながら、長い間介護した(今はもういない)父と母の車椅子姿とダブった。 そして、ドリスのように、もっとぶっきらぼうでデタラメでもよかったな。暖かい日だけでなく、雪の日も寒い日も外に連れて行けばよかったな、その方が本当で、と思った・・・ かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2021-10-02 21:38
2021年 01月 31日
正月休みを挟んだ一月、新海誠のアニメを全て観た。 「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」「彼女と彼女の猫」が気に入った。 これらの作品はSFやファンタジーではなく、日常性を扱った、小説をアニメに置き換えたような作品だが、従来のアニメとは違って、都会や自然の緻密な描写と動き、登場人物の心の揺れ動きが独白で繊細に語られ、新鮮だった。 中でも「秒速5センチメートル」はこうした特徴がよく表れている。 物語は小学生の貴樹と明里の何気ない会話から始まる。 桜の花びらの落ちるスピードが秒速5センチメートルだと言って、散る花びらの中を走り去る明里を貴樹が追いかけるファーストシーンは、繊細で美しいと同時に、物語全体を暗示していて象徴的だ。 小学校卒業と共に明里は親の転勤で栃木に移り住み、二人はバラバラになる。 やがて貴樹も親の転勤で鹿児島に引越すことになり、その冬、二人は栃木で会う約束をする。 この貴樹が明里に会いに行く日のシーンはとても魅力的だ。 まず、雪がちらつき始める中、小田急線の豪徳寺駅から新宿に向かう車窓の外の何気ないシーンに参ってしまう。目線の位置にある電線が電車のスピードに乗って生き物のように動くのだが、小田急線利用者の私が毎日見ている光景が(気の遠くなるような努力で)このようにアニメで再現されると、初めて見る光景のようにハッとさせられる。 その繊細な外部の描写と感情の起伏の移り変わりは新宿、大宮、久喜、小山、終点の岩舟まで続く。雪による電車の遅延で明里をずっと待たせることへの落胆と悲しみが観る者へ丁寧に伝わってくる。だから、岩舟駅の待合室で深夜に明里と会えた時の静かな深い感動は、観る人すべてに共有される。 物語は次に種子島での、貴樹の高校最後の夏に移る。 だが、ここでの主人公は貴樹ではなく、彼に思いを寄せる花苗だ。 彼女の独白で二人の微妙な関係がわかるが、その接点はどこまで行っても交わらない。その切ない思いは誰もが一度は経験したことがあり、共感を覚えるものだが、貴樹は遠くを見つめるだけで、しかもいつもとても優しい。 貴樹の後を泣きながら歩く花苗達の目の前で、突然、轟音と噴煙を上げながら、宇宙センターの発射台から打ち上げられたロケットが去っていく。その瞬間、花苗は二人のこの距離感はこれからも変わらないだろうが、自分はずっと貴樹のことを好きだろうと悟る。 花苗は人生の長い道のりに咲く一輪の花のように愛しい。 物語は最後に東京での、貴樹の慌しい社会人生活で終わる。 3年間付き合った理紗とも別れ、働く目標も見失い、会社を辞めたある日、桜を見に小学校時代通った辺りに行く。踏切ですれ違った女性に何かを感じ、振り返るが、やってきた小田急線の列車が遮り、過ぎ去った後に女性はいなかった・・・ 人生の機微や心の動きを丁寧にすくい上げた、アニメの形を借りた映画だ。 3つの話にはそれぞれ、「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」のタイトルが付けられ、短編連作の形を採っているが、貴樹を通した一つの物語となっている。特に最初と最後は(独白が貴樹で)つながりが強く、そこに少し異なる「コスモナウト」(独白は花苗)が挟まれることで、話に単調さやベタつきがなくなり、変化や奥行きも出て、成功している。 貴樹の心には中1の冬の明里との再会の記憶がいつまでも残り、その後の花苗や理紗との恋愛にも深く影響を及ぼす。(だが、明里は別の男と結婚する) この作品以外にも言えることだが、新海誠のアニメのエンディングは単純なハッピーエンドではなく、別れや喪失感、そこからの旅立ちが多く、どこかほろ苦い。 それは小説を一冊読み終えた後の感覚に近く、子ども向けアニメやジブリのアニメの終わり方とは大きく異なる。 実際、登場人物の独白にしても「僕たちの前には、未だ巨大過ぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた」と書き言葉で語られるケースが多い。(彼はアニメ公開後にそれを文字に置き換えさらに補った小説を残してもいる) こうした傾向は初期の「彼女と彼女の猫」から既に始まっていて、興味深い。 「君の名は。」や「天気の子」もいいが、よりリアルな日常性を題材としながら、都会や自然の繊細な描写や動き、人の心の揺らめきを丁寧に写し取るところに新海誠の独創性とすばらしさがあると思う。 そういう作品をこれからもたくさん観たい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2021-01-31 23:50
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