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2012年 08月 25日
![]() 映画が終わると、愛が終わったみたいに感じる 「ジョン・カサヴェテスは語る」を読んだ。とてもよかった。 この本はカサヴェテスが自分の生い立ちに始まり、映画を志すに至った経緯、自分の映画について生前語った多くのテープや記録の中からレイ・カーニーが抜粋して一冊の本にまとめたものだ。 目次を見ると、序章と終章以外はすべて彼が監督した作品が並び、それらが時系列に添いながら語られて行く。 序章 ギャグニーがぼくのアイドルだった 1929-57 第1 章「アメリカの影」 1958/59 第2 章「トゥー・レイト・ブルース」1961 第3 章「愛の奇跡」 1963 第4 章「フェイシズ」 1968 第5 章「ハズバンズ」 1970 第7 章「こわれゆく女」 1975 第8 章「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」1976/78 第9 章「オープニング・ナイト」 1977/78 第10章「グロリア」 1980 第11章「ラヴ・ストリームス」 1984 終章 自分が誰なのか言ってごらん 1985-89 カサヴェテスの語り口は自由奔放というか、時々矛盾や一貫性を欠くこともあるが、悪態をつきながら率直極まりないもので、私は読んでいて思わず「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンの語り口を思い出した。 ギリシャ移民の子としてニューヨークで生まれたカサヴェテスは、子供の頃から映画が大好きで、ジェームズ・ギャグニーがアイドルだった。ハイスクールを卒業後、女の子にモテたい一心から入ったアメリカ・アカデミーで演技を覚え、やがてTVや映画に出演し、仲間達とワークショップを結成して、その延長で脚本、監督の第一作となる「アメリカの影」を自主制作することになる。 「・・・あるクラスの講習中に、ぼくはとある即興にとても感銘を受けて言った。『おい、あれでものすごい映画が作れるぞ』。それは白人と思われている黒人娘についての映画だった。彼女は白人のボーイフレンドに黒い肌をした自分の兄を引き合わせて、ボーイフレンドを失ってしまう。 その夜ぼくはジーン・シェパードのラジオ番組『夜の人々』に出演していた。・・・ぼくは言った。『もし普通の人たちが映画を作れるとしたら素晴らしいじゃないか。ビジネスや映画がいくら稼ぎだすかしか興味のないハリウッドのお偉方連中の代わりにさ。・・・ほんとにみんな金を出してくれるべきだよ』 翌日、ドル紙幣で2000ドルが郵便で届いた。それでぼくらは映画に取りかかることになった」 初めての映画制作で技術も機材もなく、悪戦苦闘する中で、カサヴェテスと仲間達は逆に自分達のオリジナリティに気づき、それを自覚するようになる。 「ぼくは最初から、ドラマの構造を強調したり登場人物たちをプロットに従属させたりするよりは、本物の人間たちと向きあうという問題の方に関心があった。『アメリカの影』が他のどんな映画とも本当に違う点は、他の映画の場合はストーリーから登場人物が生まれるのに対して、『アメリカの影』はそれ自体登場人物から生まれたものだというところだ」 「ぼくが持っているかもしれない唯一の才能は、役者がしたいようなやり方で役者に自分自身を表現させられるってことだ。ぼくがやりたいようなやり方じゃなくてね!映画の仕事をしているときは、どんな意見を持つことも自分に禁じるし、事実何の意見も持ってはいない。ぼくはただ、人々が言うことを録音し、彼らがすることをフィルムに撮りたかっただけだ・・・ もし映画がまず第一に監督か脚本家の創造物だとしたら、その主題に単一の見解しか持つことができない。それはたったひとつの想像力による産物でしかない。でももし映画が役者によって創り上げられているなら、その作品は役者の数と同じだけの相貌を備えることになる。話の展開が全体的になるんだ。いくつかの想像力によって共有された創造物になるってことだ・・・ はっきり言葉で表現できない人々が紡ぎ出す物語は、言葉で明瞭に表現できるひとりの人間が想像する人為的な物語より面白いと思えるね」 音楽は何と最初はマイルス・デイヴィスを使う予定だったが、結局チャーリー・ミンガスになった。(それでも凄いことだ!) こうして制作開始から2年かけてできた映画の上映会はさっぱりだった。カサヴェテスと仲間達は15日間で映画を撮り直し、約3/4を差し替えて2つ目のヴァージョンをつくったが、やはり批評はさっぱりだった。 借金取りに追われ、妊娠9ヶ月の妻ジーナ・ローランズを抱えていた彼のもとへTVシリーズ「ジョニー・スタッカート」の出演依頼が舞い込み、金銭的には持ち直す。だが、やり方や考え方の違いから制作上のトラブルを繰り返す。 丁度その頃、ロンドンのアンダーグラウンド映画祭での好評に端を発してヨーロッパで有名になった「アメリカの影」はアメリカ本土でも公開され、好評を得る。やがてカサヴェテスはハリウッドから招かれ、2本の映画(「トゥー・レイト・ブルース」「愛の奇跡」)を撮ることになる。 しかし、内容的には満足のいくものではなく、おまけに大物プロデューサーのスタンリー・クレイマーと衝突してハリウッドから閉め出され、それを切っ掛けにインディペンデント映画の道を歩むことになる。そして自宅を抵当に入れ、俳優としてのギャラをつぎ込み、「フェイシズ」をつくる。 「ぼくは女房に、次の映画はただやりたいように作るぞと話した。ぼくの新たな熱意を見て、彼女はとても喜んでくれた。映画を信じてくれたのは、ジーナ、(モーリス・マッケンドリー、)アル・ルーバン、そして時間をさいてくれた役者たちだけだった・・・彼らは信頼してくれていた。映画会社はどこもバックアップしてくれなかったし、ぼくもそんなものには興味がなかった・・・ぼくは自分のやり方でそれを作りたかったんだ。・・・自分で脚本を書いて撮影しようと決めると、家に帰ってジーナに言った。『今後2年はどんな贅沢もしないで大丈夫かい?持っているものはすべて映画につぎ込むよ』。彼女は言った。『いいわ。ただし髪のセットだけは別よ。それだけはゆずれないわ!』 「(3ヶ月もあれば終わると思ってたけど、結局は)6ヶ月半かかってしまった。ぼくは金をめぐんでもらったり、借りたり、盗んだりしなくちゃならなかった。自分の信念のためなら、殺人さえやったろうね!友人に嘘をついた。無担保で銀行から借金した。『ローズマリーの赤ちゃん』の報酬も役に立った。ぼくらの映画の予算は1万ドルだったけど、その映画ときたら、20万・・・ともかく20万ドル以上はかかってたよ。金がかかったのは、フィルムや技術的なことなんかだ。役者は無報酬で働いた。スタッフも無報酬で働いた。みんなが映画のために働いた。だから映画は、ぼくらみんなのものなんだ。 みんなが・・・金や名声のためじゃなく、創造の喜びのためにものすごく働いた。1965年に撮影を始めた日から6ヶ月後に終わるまで、そして1968年に最終プリントが完成するまでの間、一人ひとりの映画に対する献身には疑う余地がなかった。・・・みんなの気持ちが一つになるのを感じたり、尊敬できる人たちや自分の仕事を愛する人たちと一緒に仕事ができたのは、本当に楽しかった。」 (つづく)
by odyssey-of-iska2
| 2012-08-25 21:12
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