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2013年 03月 23日
![]() 大島渚が亡くなって二月が過ぎた。 私は決して大島渚の良いファンではなく、彼の映画も5本しか観ていない。 テレビの討論番組の激昂ぶりも何だかヤラセのようで(もしくは確信犯のようで)興味は無かった。 だが、映画監督としては、特に「日本の」映画監督としては、極めて特異で唯一無二の存在だったと思う。なぜなら、彼ほどジャーナリスティックで、政治的で、生涯「反権力」であり続けた監督はいないからだ。 それを最初に感じたのは大学時代に初めて観た「愛のコリーダ」('76)だった。 この映画は公開前からハードコアポルノか否かのセンセーショナルな話題が先行して一種の社会現象となっていた。 ある時、喫茶店で話をしていたらまだ誰も観ていないことが分かり、じゃ、今から観に行こう、ということになって、新宿の映画館に行った。 映画はほとんどズタズタで、ボカシだらけだった。 当然のことながらその後の酒の席での評価は最低だった。 だが、とても不思議な気がした。こうなることは当然わかっていたはずなのに、なぜ大島渚はこれほどまでに本番に拘ったのだろう。しかも、映画の書籍がわいせつ文書に当るとされ、検挙起訴された。わざわざ自分からそうしむけて国と戦っている感じだった。 つまり、これは確信犯としてやった行為で、当時の日本の保守的で閉鎖的な文化や社会状況に対して風穴を開け、中央突破を計ろうとしたのではないかと思った。 映画の内容以上にそのことの方が鮮烈だった。 次に観たのは「戦場のメリークリスマス」('83)だった。 これは「愛のコリーダ」ほど鮮烈ではなく、戦争を扱った映画にしてはおとなしい、ストーリー性の強い映画だった。だが、これも不思議な気がした。 デヴィッド・ボウイや内田裕也、ジョニー大倉、坂本龍一、三上寛などロックやフォークのミュージシャンを多く用い、当時はお笑いタレントに過ぎなかったビートたけしを本格的にシリアスに使った。(結果的にはビートたけしや坂本龍一が映画の世界から注目され、どっぷりつかる切っ掛けとなった) 単なる俳優ではない、別の世界の人間を用いることで、劇的な化学変化と社会全体を映画に取り込もうと企んでいるような、そんな感じがした。 この映画の通奏低音は戦争下におけるホモセクシャルだ。 だから女は一人も出て来ない。 こうした徹底した態度と視点も大島渚らしかった。 そして彼のデビュー作である「青春残酷物語」('60)を観た。 (本当は前年の「愛と希望の街 」('59)が彼の長編映画第一作だが、脚本を書いて監督するまでの時間が無かったのか、戦略に欠け、大島渚らしさがなく、松竹らしさとネオレアリズモを強く感じる)それに引き替え、「青春残酷物語」は な〜んだ、最初の時点ですべてが出揃っているじゃないか! と思えるほど、大島渚らしかった。 まず、始めに渋谷の安保反対デモの実写シーンが流れ、それに俳優の演技がダビングされて当時の社会状況が体感される。京大で学生運動の活動家だった大島らしい出だしだ。 だが、主役の二人の若い男女は東京オリンピック前の高度成長経済に向かう欲望の時代を反映して好き勝手放題な無軌道な青春を突っ走って行く。 木場の貯木場を疾走するモーターボートや、海に落ちた女を足であしらうシーンなど、それまでの日本映画にはなかった新しさと性的な感覚で、ゴダールが「本当の意味でのヌーヴェルヴァーグの最初の作品は『青春残酷物語』だ」と言うのがわかるような展開だ。 そして初期の大島に顕著な、観念的で少し説明口調の早口の会話が繰り広げられていく。 結果的に二人は自業自得の死を迎えるが、それに対し善悪の判断を下しはしない。 極めてドライで鮮烈な感覚だけが後に残る。 それは「白昼の通り魔」('66)でも変わらない。 センセーショナルな話題を投げかけながら、ジャーナリスティックで、ぐいぐい他人の心の中に入って行く。 激しい会話のやり取りの中で、観ている者までもがシリアスに傷つけられていく。 こういう映画が嫌いな人は続けて観るのは難しいだろう。 私もさすがに疲れて、それ以降、大島渚は観なくなってしまった。 だが、それを覆す事件があった。 2000年に「愛のコリーダ」の完全ノーカット版が上映された。(修整は大幅に減ったが、これもオリジナルではないらしい) 私は観なかったが、観た友達からよかったと聞かされた。 そしてある時、そのビデオを観る機会があった。 驚いた。 それは大学時代に観た物とは別物で、日本の古典に通ずるような、近松の心中物や荷風の「墨東綺譚」のような深い味わいがあった。 エロスと死という使い古された言葉以上に、大島渚が体当たりで男女の究極の愛に肉迫し描こうとしたことがひしひしと感じられた。 確かにこの作品にも大島らしさは遺憾なく発揮されている。だが明らかに成熟している。 病魔に倒れなければ、もっと元気であれば、私達はその発展系をさらに観れたかもしれない。 残念でならない。 かずま ![]()
by odyssey-of-iska2
| 2013-03-23 13:20
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