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2013年 05月 31日
![]() 三國連太郎が亡くなって一月以上過ぎたが、ポッカリ穴の空いた感覚が抜けない。 以前、「饑餓海峡」について書いた際(→2011.3.26)、マーロン・ブランドやデ・ニーロに匹敵する俳優だと言ったが、実は日本にはこれまでこういう役者はいなくて、これからもこういう異常な役者は現れないだろうと改めて思うからだ。 上手い役者はたくさんいる。 だが、三國連太郎くらい(実人生も含めて)唯一無二な存在の役者はいない。 追悼番組や晩年の彼のドキュメンタリーを観ても、どうもその凄さが伝わって来ない。 やはり若い頃から全盛期の、つまり三國連太郎という役者が確立され、それが十全に発揮された映画をきちんと観て欲しいなと強く思う。 初めて彼の演技を映画で観たのは小学生の時で、「王将」('62)だった。 将棋の阪田三吉の半生を描いた映画で、前半の、草鞋(わらじ)職人で将棋は滅法強いが品性が無く無学文盲であることを表すシーンで、名前を訊かれて、紙に墨で縦に7本線を描き、それをくるっと回して再び3本線を入れ、「三吉です」と答えるシーンは今でも覚えている。 後半の、生涯の宿敵関村八段との和解シーンも覚えている。 関村が名人位に就く際、上京して自分で編んだ草履を差し出し、口上を述べる。 三吉が将棋の死闘を繰り返すうちに身に付けた品格さえ漂う。 丁度その時、苦楽を共にしてきた女房の小春が病で息を引き取る寸前の知らせが入る。 電話口で、周囲をはばからずに、死ぬんじゃない!俺を残して死ぬんじゃない!とオロオロ泣き叫びながら(記憶の中では突然、念仏を唱え始め)人間性丸出しで、強い夫婦愛が伝わって来る。 鬼気迫る演技を縦横無尽に繰り広げて子供心に強い印象を受け、三國連太郎という名前を覚えた。(だが、この作品は年譜から抜け落ちてる場合もある) この時点で既に三國連太郎だったのだから、役者として確立されたのはそれ以前ということになる。 彼が初めて映画に出たのは「善魔」('51)で、28才の時だ。 (三國連太郎という芸名はその時の役名をそのまま付けたもので、すぐ辞めてもっと別の仕事に就こうと思っていたと後年語っている。また、映画界へ入ったのは食うための手段で演技への憧れは全く無かったとも語っている) デビュー時の彼は181cmと大柄な体格とバタ臭いマスクでそれなりに人気はあったろう。 松竹を皮切りに東宝、日活、東映と渡り歩き、三船敏郎、石原裕次郎、中村錦之助とも共演している。 だが、こうしたスターと違って生まれや育ち、学歴に大きなハンディがあり、かつ若い時から貧困、放浪、戦争、脱走など幾多の苦い人生を経験して異なる角度から世の中を視るようになった彼が、スター(星)ではない、地に足がついた役者を目指すようになったのは極めて自然なことだ。 彼に師匠はいない。また、どこの劇団にも属していない。 常に孤として自分の生理で考え、それを生々しく表出した。 だから多くの伝説を生んだ。 「異母兄弟」('57)では夫婦役の田中絹代と老夫婦に見えないため自らの歯を10本抜いたとか、「夜の鼓」('58)では共演の有馬稲子をリハーサルの時から本気で殴りつけて失神させかかったとか、あるテレビドラマでは浮浪者の役に没頭したあまり実際にその格好でカップルを脅し逮捕されそうになったとか、聞けば聞くほど異常で、役者バカとしか言いようがない。 たぶん、こうした異常さ、つまり三國連太郎が三國連太郎になったのは「ビルマの竪琴」('56)辺りからだろう。 その一つの頂点が「饑餓海峡」('65)だ。 そして、もう一つの頂点が「神々の深き欲望」('68)だ。 「神々の深き欲望」は今村昌平の最高傑作であるだけでなく、日本映画の最高傑作の一つだと間違いなく思う。映画ができた45年前当時より薄っぺらな今の時代にこそ重要な作品で、観て感じていろいろ考えて欲しいなと強く思う。それだけ根源的で普遍的な、何度でも観る価値のある映画だ。 物語は南の架空の島「クラゲ島」が舞台で、そこに古代から続く島民達の因習に満ちた生活と新しく押し寄せる近代化の波、人間の根源的な生と性、近親相姦、男と女、老人と若者、都会と島、文明と野生など、多くの対立とうねりが土着的かつ神話性に満ち溢れながら描かれていく。 今村昌平のエネルギッシュな演出と役者達の驚くべき演技、音楽や絵づくりの上手さで、3時間という上映時間を感じさせない、というか濃密な時間を一緒に生きることになる。 その中にあって、三國連太郎の演技は決して突出はしていない(もちろん、印象的だが)。 彼の演技の特徴の一つである「受け」が多く、上手に映画にハマって盛り上げている。 この映画は多くの困難や資金難に見舞われ、2年のロケを要してやっと完成された。 そのため、今村プロだけでなく、俳優達の私生活にまで深く影響を及ぼした。 三國連太郎は妻子と別れ、それが後年、息子、佐藤浩市との確執につながる。 当時のことを彼はこう語っている。 「イマヘイさんていうのは、あの当時、視野が広かったんですねぇ、非常に。 ある種、宇宙観という意味では『神々の深き欲望』を観て、なんか、こう、永遠に残って鑑賞に堪えられる映画だという気がしているんですがねぇ。 まぁ、僕は古典に向かって『役者とは何か』という成り立ちを勉強してみようと思い始めたのは、今村と足掛け2年の仕事の影響だと思っていますけどねぇ」 そしてますます独立プロの作品を選んで出演するようになる。 本当の役者バカとしか言いようがない。 その遺伝子は当然、佐藤浩市にも受け継がれている。 三國連太郎の役者人生50年を記念してつくられた「役者」('99)は大変興味深いドキュメンタリーで見所一杯だが、その白眉は息子、佐藤浩市と共演した「美味しんぼ」('96)での撮影現場だ。 ここで息子は明らかに親父に向かって真っ向から反抗している。 それも役者としての演技論を吹っかけて。 時には監督やスタッフがいることも忘れて親父に食って掛かり、親父をタジタジにさせている。 さすがの三國も周りに助けを求めたりする。 だが、こうして遺伝子と遺伝子はぶつかり合い、さらに強い絆となってその因子は受け継がれて行くのだ。 そしてとうとうそのバトンタッチをする時がやって来た。 このドキュメンタリーの最後は彼のこの言葉で終わる。 芸術なんてそんな大したことじゃないと思うんです、本当は 生きるということ以上に素晴らしい芸術は無いということですね 三國連太郎は(実人生を含め)すべてを生き切った。 凄い芸術家だ。 かずま ![]()
by odyssey-of-iska2
| 2013-05-31 20:08
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