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2019年 04月 27日
この映画を初めて観た時は、監督はヒッチコックで、チャップリンは俳優として客演しているのだと思った。 それほど、この映画はチャップリンのそれまでの映画とは違う。 フランスに実在した殺人鬼をモデルに、妻子を養うために結婚詐欺と殺人を繰り返す男が主人公で、笑いの要素はほとんどなく、スピーディーな展開と、どこかおぞましい話の内容は、真にヒッチコック的だ。 ヒッチコックはイギリスで「三十九夜」(‘35)、「バルカン超特急」(’38)をつくった後アメリカに渡り、「レベッカ」(‘40)、「疑惑の影」(’43)などをつくったから、同じイギリス出身の監督としてチャップリンもそれらを観ていただろう。 また、トーキーの時代になり、これまでとは違う映画を模索していたチャップリンにとって、鬼才オーソン・ウェルズが持ち込んだ原案(ウェルズが脚本を書き、喜劇役者のチャップリンが殺人鬼を演じるというものだが、こうした発想自体、極めてウェルズ的だ)はチャレンジブルで新鮮だったろう。 かくして、これまでとは全く異なるチャップリン映画が誕生する。 だが、よく観ると、ヒッチコックやウェルズとは違い、やはりチャップリンらしいなと思う。 例えば、殺人鬼なのに、庭のバラを手入れしていて、足元にいた虫に「こんな所にいると踏みつけられるよ」と言って逃がすシーン。 また、初めて妻子が出てくるシーンでは、極めて良き家庭的な父親で、しかも妻は足が不自由で車椅子生活をしていることがわかる。 つまり、ただの氷のように冷たい男ではなく、銀行をリストラされ、それまでの生活を維持するために結婚詐欺や殺人を犯すようになったというチャップリン的説明がある。 餌食になる夫人は嫌な中年ばかりだが、一人だけ若い美人が登場する。 刑務所から保釈されて雨宿りをしている彼女を家に招き、わけを聞く。本当は毒薬入りワインを試そうとしたのだが、不具の夫のために盗みを働いたと聞き、やめて逆に金をやる。(この辺りも極めてチャップリン的) この若い美人(マリリン・ナッシュ)は重要な役どころで、後半で軍需産業の社長夫人となり、再会して礼を果たそうとするのだが、世界恐慌で全財産と妻子を失った殺人鬼は、その純粋な気持ちに触れて運命に身を委ねる決心をし、捕まり、裁判の席で、「大量殺人では、私はアマチュアです」と言う。 そして、死刑執行の時に「一人殺せば悪党だが、100万人なら英雄だ。数が殺人を神聖化する」と言って消えていく。 (この言葉を初めて聞いた時、私はトルーマンが原爆投下を行った後に言った「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」という偽善の言葉をなぜだか思い出した) つまり、この映画は、形や発想はヒッチコックやウェルズを借りているが、中身はチャップリンで、「独裁者」(‘40)の延長上にある、シリアスでひねりの効いた、立派な反戦映画だ。 その矛先は負けた国だけでなく、戦争を行った全ての国に向けられている。 このため、当時赤狩りの真っ最中で、反共的で、自国に敵対するあらゆるものを罰するアメリカ政府の怒りを買い、チャップリンは1952年に国外追放を命じられる。 彼が再び、アメリカの地を踏むのはそれから20年後のことだ。 どちらが正しかったかは今となれば歴然だが・・・ 最後に。 この映画の日本語のタイトルは最低だ。 チャップリンだから「◯◯狂時代」にすれば客受けするという浅薄さしかなく、 映画をつくった人達への尊敬や配慮が少しも感じられない。 原題は「Monsieur Verdoux」(ムッシュ ヴェルドゥ)。 そのままで十分だ。 かずま
by odyssey-of-iska2
| 2019-04-27 20:13
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