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2010年 09月 25日
映画は基本的には監督だと思う。 だから好きになった映画監督の作品は、過去にさかのぼって立て続けに観る癖がある。 昔は今のようにDVDで簡単に観れない代わりに、マニアックな映画館では監督週間というのがあって代表作を立て続けにやってくれた。大学生の頃はよくそうやって好きな監督を虱潰しに観ていった。ゴダールや黒沢もそうやって観た。 ところがフェリーニだけはどういうわけか観なかった。別に食わず嫌いというのではなく、たまたま機会に恵まれなかっただけなのだが、逆に気になり、観たい思いが募っていった。 それが実現したのはパリだった。 当時、私はヨーロッパを放浪していて、パリで最初に泊まったカルチェ・ラタンの安宿の隣の隣が映画館で、たまたまやっていたのが「道(La Strada)」だった。 ラッキーと思って切符を買ったら、月曜日だったので更に料金が安くなり、またまたラッキーと思って席に着いた。ところが映画が始まり、すぐに全然ラッキーでないことがわかった。 言葉はイタリア語で、字幕もフランス語だった。 英語だって怪しいのに、こりゃダメだ!とすぐに匙を投げた。 ところが観て行くうちに、ストーリーや会話の意味が少しずつわかるようになっていった。別に急に天才になってイタリア語やフランス語が理解できるようになった訳ではないが、顔の表情や身振り手振り、場の空気やシチュエーションで自然とわかるようになったのだ。 (後日、日本語の字幕でチェックしたが、ほとんど間違いが無かったのには驚いた) 映像の力をまざまざと感じた。 だが、どんな映画でもそれができるのではなく、この映画だからこそできたのは、この映画には誰の心にも届き、響く何かがあるからだ。 純粋で無垢なものと野卑で荒々しいものとの対立、聖性と俗物の葛藤、弱いものと強いものの存在、その果てにやって来る愚かな行為と取り返しのつかない後悔・・・ ラストシーンの、夜の砂浜で涙を流しながら悔恨にもがくザンパノ(アンソニー・クイン)を観ながら私も涙した。 この映画の中で好きなシーンはたくさんあるが、その中でも飛び抜けて好きなシーンがある。 オツムは弱いが純粋で優しいジェルソミーナ(ジュリエッタ・マッシーナ)が夜中に、 「自分は何の役にも立たない人間だ」と泣きながら言うのに対し、彼女を秘かに愛する綱渡り芸人のイルマット(リチャード・ベイスハート)が地面の小石を拾い上げながら、「この世に無駄なものは何もない。こんな小石だって何かの役に立ってるんだよ」 と言うシーンだ。 それに勇気づけられるジェルソミーナ。 だが、優しいジェルソミーナは、イルマットではなく、自分を必要としている粗野なザンパノの元へ戻っていく。 人生の機微に触れるような瞬間だ。 その後も旅を続けながら、パリに戻って来る度に「パリスコープ」(日本の「ぴあ」にあたる雑誌)を買っては、フェリーニを上映している映画館を探し、一つ一つ観ていった。 (パリでは夜間に映画好きが集まって自分たちの好きな映画を自主上映している映画館があり、どこかしらでフェリーニはやっていた) そうやってフェリーニの黄金時代の映画(「甘い生活」('59)、「8 1/2」('63)、「アマルコルド」('73))を観た。 そして「カサノバ」('76)、「そして船は行く」('83)を観て、もういいと思った。 ゴダールや黒沢にも晩年があるように、フェリーニの映画にも衰えはある。 だが、フェリーニが切り開いた独創的な映画の世界は誰も真似することができない。 そして、それは「道(La Strada)」から始まった。 深く愛してやまない。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2010-09-25 23:15
2010年 08月 31日
夏風邪を引いた。無理して休まないでいたら、身体のあちこちがおかしくなった。 ギブアップして、たまには自分にご褒美をやることにした。 渋谷のシアター・イメージフォーラムでやっている、ホセ・ルイス・ゲリンの「シルビアのいる街で」(2007) を観にいった。 ドキュメンタリーに最小の手を加えたような感じの映画で、音と映像がよかった。 ヴィクトル・エリセの「マルメロの陽光」('92) を思い出した・・・ エリセの映画はこれまで3つ観た。 後の2つは「エル・スール」('82)と「ミツバチのささやき」('73)で、オムニバスを除いた彼の映画はこの3本しか無いから、ほとんど観たと言っても過言ではない。 それほど彼は寡作家で、「10年に1本しか撮らない映像作家」と言われる。 この3つの作品はどれもが忘れられないが、やはり最初に観た「ミツバチ‥」は特別だ。 (日本で最初に紹介されたのは85年で、場所は六本木のシネ・ヴィヴァンだった) 観終わった後、私の中のものつくりの魂が共鳴してしまい、しばらく席を立てなかった。 一つ一つの構成がとてもプリミティブで、すべてのテクスチャーが生身で感じられたのだ。 最初のオープニングからしていい。 子供が描いた素朴な絵がタイトルバックに流れ、それはそのまま移動巡回トラックに変わって、村で「フランケンシュタイン」の映画が催されるシーンに移る。主人公のアナは姉のイザベルからフランケンシュタインは怪物ではなく精霊で、村のはずれの一軒家に隠れていると教わる。 それを確かめに行くアナ。一軒家で足を怪我した兵士と出会い、リンゴを差し出し、オルゴール時計で一緒に遊ぶ。その夜、銃声が響き、翌朝、死骸となって公民館に横たわる兵士。警察に呼ばれ、返された自分のオルゴール時計を一人虚ろに鳴らす父。一軒家に行き、血の跡を見て驚くアナ。 その夜、家に帰らず森の中を彷徨するアナはフランケンシュタインと出会う。そして昏睡状態で発見される。みんなが心配する中、深夜、一人ベッドを抜け出し、窓を開け、暗闇の精霊に向かってささやくアナ・・・ こうした、素朴で澄んだ子供の目線から視たいろいろな出来事が、陰影の濃い静謐な映像で繰り広げられて行く。 スペイン内戦や大人達の謎に満ちた行為も描かれている。だが、それらは決して声高ではなく抑制された形で描かれている。しかも最後まで人が呼吸するテンポを大事にしながら、ファンタジーと寓意を交えたイマジナブルな映像として描かれている。 一つ一つが手仕事で組立てられ、すべてに手触りが感じられた。 私は初めて映画を観ながら、ものつくりのつくり方を教わったような気がした。 「ミツバチのささやき」は未だに私の創造の原点であり、何度でも観たくなる映画だ。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2010-08-31 18:20
2010年 08月 09日
M1(修士1年)のM君は建築のエロスを研究している。 私はそれをとてもおもしろいし、本質的だと感じているのだが、ほとんどの先生には総スカンを食らってるらしい。で、先日、その研究内容のレジュメを初めて見せてもらった。 これが全然ダメだった。何がダメと言って、少しも内容がエロティックではなかったのだ。 学術論文みたいな空疎な手続きと内容で、(他の先生に少しでも気に入ってもらおうと努力したのだろうが、)だったら別の形にするか、純粋に辞めるしかない。 少なくともこの映画を観てから、もっと愛と肉欲とそれを超えた何かについて深く考えることから始めた方がいい、と「ベティ・ブルー」を勧めた。 この映画は衝撃的だった。いきなり最初から本気で“やってる”のだから。そこに「・・・このような暗い画面に修正させられたのは監督の本意ではない」というような意味のテロップが流れるが、そんなことはどうでもいい。十分に観客の心を鷲掴みにしている。 その後もジェットコースターに乗ったような感じで、あれよあれよという間に凄いスピードで結末まで突き進んで行くのだが、その先に残った物は、不思議なくらい純粋な、聖性に満ちた鎮かな感覚なのだ。 つまりこの映画は、凡百の恋愛映画とは違って、最初はセックスによる興味本位の繫がりに過ぎなかった男と女が、やがて本当の愛を育み昇華して、その果てに精神に異常を来した女の尊厳を守るため男が病院に忍び込んで殺すという、現代の神話としか言いようのない、激しく本能的で純粋な物語なのだ。 こういう生き方はもちろん現実には無いだろう。映画にしかできない特権だと普通の人は言うだろう。だが、私は惹かれる、こうした激しく純粋無垢な生き方に。そして憧れる、怠惰な日常を本能的に打ち破っていく二人に。 たぶん、ベアトリス・ダルがいなかったら「ベティ・ブルー」はできなかっただろう。 それくらいこのデビュー作でのベアトリス・ダルは自由奔放で、本能的にベティを演じている。というか、ベティを生き切っている。またこの当時のベアトリス・ダルはエロティシズムと聖性を同時に兼ね備えていた。だからこのような奇跡の映画ができた。 実はこの作品は発表当時のバージョンと、6年後に監督自らが手を加え1.5倍に長くなった「インテグラル」バージョンとがある。前者は圧倒的にベティ(ベアトリス・ダル)の物語なのだが、後者は彼女に寄り添った男ゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)から見たベティの物語となっている。 どちらがいいとかではなく、いろんな発見があり、どちらも私は好きだ。 この映画を最初に観たのは新宿の歌舞伎町だった。 先日、用があり、久しぶりにその場所にいったら、映画館は既に無くなっていた。 愕然とした。 ベティとゾルグを追いかけ、街を彷徨した・・・ かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2010-08-09 14:16
2010年 05月 24日
プライドの無い人間が嫌いだ。 反対に気品とプライドがあれば、たとえ悪人でも私は惚れてしまうだろう。 映画でも気品とプライドのある映画が好きだ。 「カサブランカ」を何回でも観たり、「モロッコ」のデートリッヒに惹かれるというのはそういうことだ。最近はそういう映画が少なくなったなと思っていたら、この映画に出会った。久しぶりにムズムズした。 実はクリント・イーストウッドの映画はもういいと思っていた。 「ガントレット」('77)以来、彼の監督した作品は10本近く見た。 が、近年はさすがに食傷気味で、「ミリオンダラー・ベイビー」('04)を最後に、見るのはやめにしようと思っていた。最近はやたらといろんな賞を貰うのも嫌だった。(別にイーストウッドが悪いわけではないのだが、ハリウッド受けする映画は好きではない) この映画は偶然観た。しかも出だしの印象はすこぶる悪かった。偏屈な爺(じじい)コワルスキーが女房を亡くし、教会で悪態をついている。息子夫婦や孫たちとは一線を画し、周りの住民とも偏見をむき出しにして交わろうとしない。こんな奴がいたら嫌だな、というのが正直な感想だった。 ところが、一つの事件から様相が変わって行く。 隣に引越して来たモン族(東南アジア系の移民)の少年が不良にそそのかされ、コワルスキーの愛車(グラン・トリノ)を盗みに来る。が、見つかり、這々の態(ほうほうのてい)で逃げ去る。そして不良に取り囲まれたその少年と姉を偶然救ったことからコワルスキーは隣家のパーティーに招かれ、一族の暖かい歓待を受けて心が少しずつ氷解し始める。(この辺りの、ぎこちなさと喜びが同居したシーンはほのぼのとして味がある) 不良達の嫌がらせは更にエスカレートして、少年の家は銃弾の乱射を受け、姉は陵辱される。報復に燃える少年をいさめ、コワルスキーは一人で不良達の館へ立ち向かう。 そして、アッと言わせるやり方で抗争を終焉させる・・・ なるほど、こんな命の使い方もあったんだなと感心した。 俺もこうした死に方をしよう、そう思った。 人は死んだら何が残るのだろう? 金や名誉ではない。 ましてや、社会的な地位や成功ではない。 その人の生き様がどんなにすばらしかったか、それだけしか記憶に残らない。 そして、それを支えているのは、気品とプライドだ。 「グラン・トリノ」のコワルスキーは私の好きな人間の一人となった。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2010-05-24 14:39
2010年 05月 05日
Hello darkness, my old friend I've come to talk with you again Because a vision softly creeping Left its seeds while I was sleeping And the vision that was planted in my brain Still remains Within the sound of silence 中学生の頃、サイモンとガーファンクルの「サウンド オブ サイレンス」を聴いて、初めてコミュニケーションの断絶(もしくは不在)を意識した。 しかし、それはどこか遠い世界のことのようで、本当の意味では理解していなかった。 その後、高校、大学を経て社会に出てみると、如実にそれを感じるようになった。 パブリックだけでなく、プライベイトでもそれを経験すると、増々その重要性を意識するようになった。 この映画はそれを鮮やかに切り取り、今の時代の我々の置かれた状況を示してくれた映画だ。 この映画が封切られた当時、私はヨーロッパを放浪していて、パリに戻ってくる度に、映画館前に貼られたナスターシャ・キンスキーのポスターが私を誘惑した。 「そのうち会いに行くよ」と彼女に言ってるうちに、それは消えて、次の映画に変わっていた。とても失望し、悲しかった。 結局、この映画を観たのはそれから10年後で、東京だった。その時まで、なぜパリとテキサスなのか?はわからなかった。もちろん、テキサスにパリという街があることなど知らなかった。 映画は、その荒涼としたテキサスの砂漠を主人公のトラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)が彷徨するシーンから始まる。 彼は記憶を喪失しているのだが、やがて、別れた妻(ナスターシャ・キンスキー)と幼い息子の存在が観客にもわかってくる。ほどなく息子とは再会できるが、その息子へ毎月わずかな送金をして来ることしか妻との接点はなく、やがて息子と二人の、妻探しのロードムービーへ話は展開して行く。(この辺りはヴェンダースらしい) そして、妻がある町のキー・ホール・クラブ(客の側からはブースの中の女が見えるが、ブースの中の女からはマジックミラーで客の姿が見えない個室)で働いていることを突き止める。がショックで、最初は何も告げずに部屋を出て行く。そして翌日意を決し、もう一度会いに行く。このシーンが凄い。 妻との二人の会話を始める前に主人公は自分の席を逆にし、自分も妻が見えない対等な関係に戻すことから始める。そして、ある男と女の物語をゆっくり語り始める。それは個人的な形を装いながら普遍的な愛の物語でもある。やがて妻も相手が夫であることに気づき、自分の心の内を語り始める。二人の会話には、喪失感を伴いながら、どこかに互いを分かり合おうとする愛がある。 このシーンほど現代の孤独と悩める愛の深さを感じたシーンはない。 ニューシネマの極北だろう。 それにしても、この「パリ、テキサス」というタイトルは唐突で謎めいてる。 映画の中では、両親が最初に愛を交わせた所で、主人公が購入したテキサスのパリという街という説明が出てくるが、それは単なる言訳に過ぎないように思う。 むしろ、私がこの映画を観るまでの10年間、ずっとどこかで感じ続けたように、パリ、テキサスという、相反するヨーロッパとアメリカの2つの場所を並べることで、引き裂かれた2人の男女の心の距離を表しているように思える。 全編を流れるライ・クーダーの乾いたスライドギターの音色や揺らいだアコースティックな音色が忘れられない。 結末も単なるハッピーエンドではなく、味わい深い。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2010-05-05 17:39
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