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2017年 03月 31日
JALの機内で聴ける音楽は貧弱だといつも思う。特にジャズは最悪で、何の工夫もないどころか、ポップスの一部かバックに流れるイージーリスニング程度にしか扱われないことも多い。 先日の奄美の行き帰りも聴くべきものがまるでなく、しょうがないのでビートルズの初期のライブをやってたので聴いたら、これが思いの外良かった。結局、行きも帰りもずっとこれを聴いた。 この「Live at the Hollywood Bowl」('64&'65)は、昔「スーパー・ライブ」という名のLPで発売されたが、今回聴いたのは全然別物と思える程音が良く、かつ生々しくて、ロックンロール・バンドとしてスタートした当時のビートルズの勢いを彷彿させてくれる。 このライブは当時を扱ったドキュメンタリー映画の公開に合わせて再発されたもので、当のDVDがTSUTAYにあったので借りて観た。 結果はただのスカッとした映画ではなく、60年代と、ある種の屈折した人生を感じさせる、深くて苦いドキュメンタリー映画だった。 出だしは「She loves you」をすこぶる快調に歌いまくる4人の姿から始まる。(特にジョンが男らしくてカッコいい!) 周りの熱狂も凄くて、改めてビートルズが出て来た当時の異常な興奮を思い出した。(と言っても、当時の小学生の私にはその意味はわからなかった) これだけだと、ビートルズはポッと出のワッと受けたバンドのように思えるが、「ここに来るまで大変だった」というポールの述懐がそれにかぶさる。 実際、彼らはデビュー前の60年、61年とハンブルグに巡業し、ライブ会場の酒場で毎日6〜8時間、しかも数ヶ月間演奏するという過酷な雌伏の時を過ごす。この試練が、荒削りだが度胸と迫力のある彼らの初期の演奏の土台となり、62年10月に「Love Me Do」でデビューを果たす。そして翌63年から快進撃が始まり、「Please Please Me」(1月)、「From Me To You」(4月)、「She loves you」(8月)、「I Want To Hold Your Hand」(11月)と、出すシングル、出すシングルがすべてヒットチャート1位を記録する。 (当時の勢いはこのドキュメンタリーの中で十分感じ取れる) ビートルズの異常なのは、短期間にヒットシングルを連発しながら、かつライブやコンサートをずっとこなし続けたことだ。(この映画のタイトルの元となった「Eight Days A Week」('64 12月)という曲は、休日もなく働き詰めの毎日を「週に8日も仕事だなんて」とリンゴ・スターがボヤいたのが元で生まれた) ライブやコンサートで24時間拘束される不自由な生活を続けるうちに彼らの神経はすり減り、有名になったことで周囲との軋轢も深まり、やがてそれは頂点に達する。 「まるで見世物さ。曲なんて聴いちゃいないし。うんざりし始めていた」 「”シー・ラブズ・ユー”をずっとは歌えない」 「次の新しい場所を求めていた。進化の時だし、変わりたいと思ってた」 ポールとリンゴの述懐は苦い。そして66年のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを最後に彼らはレコーディング・アーティストへ移行する。 映画の最後はこのコンサートの模様で、確かにそれは異常で、音楽ではなく見世物だった。退場も鉄の護送車に乗ってで、どこか寒々としたシーンだ。 その後、彼らは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(''67)、「ホワイト・アルバム」('68)、「イエロー・サブマリン」('69)、「アビイ・ロード」('69)と、ビートルズにしか作れない遊びと実験と音楽性の融合したアルバムを残し、「レット・イット・ビー」('70)で解散する。 「レット・イット・ビー」が出た時(高一だった)、誰かが「ビートルズは解散するかもしれない」と言った。嘘だろ?と思ったが、本当だった。 「The Long And Winding Road」を聴くと、今でもその頃のことを思い出す。 ビートルズは確かにチャック・ベリーやリトル・リチャードらの影響を受けてロックンロールから始まったが、やがてそこから脱皮し、もしくは進化させて、新しい音楽を次から次に作っていった。その原点と変化の切っ掛けを辿れるドキュメンタリーで、彼らの心情と生きた時代の両方が捉えられている。 曲を聴くだけでなく、観たらもっといろいろなことを感じられるに違いない。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2017-03-31 17:16
2017年 02月 27日
美術の話をすると、君は美術の本の知識を話す。 ミケランジェロのことにも詳しいだろう。彼の作品、政治的野心、法王との確執、セックス面での好み・・・ だが、システィーナ礼拝堂の匂いを、あの美しい天井画を見上げたことは? ないだろう。 女の話をすれば、君は好きなタイプを挙げる。 女と寝たこともあるだろう。 女の隣で目覚め、真の幸せを感じたことは? 君は難しい子供だ。・・・ 愛の話をすれば 、君は愛の詩を暗唱する。 でも、自分をさらけ出した女を見たことは? 目ですべてを語ってる女。君のために空から舞い降りた天使。君を地獄から救い出す。君も彼女の天使となって彼女に永遠の愛を注ぐ。 どんな時も・・・癌に倒れても。 2ヶ月もの間、病院で彼女の手を握り続ける。 医者も面会規則のことなど口に出せない。 自分への愛より強い愛で愛した誰かを失う。 君はその悲しみと愛を知らない。・・・」 これは心理学者のショーン(ロビン・ウィリアムズ)が、天才だが心を閉ざした問題児のウィル(マット・デイモン)に公園で語る台詞だ。 亡き妻を描いた思い出の絵に心ない言葉を吐いたウィルに対する直球の言葉だ。 別の場面ではこうも言う。 「妻は緊張するとおならをするヘンな癖が・・・眠ってる時もね。 ある夜はその音で犬が目を覚ました。妻も目を覚まして、 『今のは、あなた?』 ・・・死んで2年、ひどい思い出だな。 そういう小さなことが、今では一番懐かしい。 僕だけが知ってる癖・・・それが愛おしかった。 僕の癖も彼女は皆知ってた。 癖を欠点と考える人間もいるが、とんでもない。 愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ。・・・」 (奥さんに出会ってなければ、どんな人生を歩んだかと問うウィルに対し、) 「そりゃ、今も悲しい。 だが、妻との日々は一日たりとも後悔していない。・・・ 彼女に話しかけなかったら今も後悔してただろう。 ナンシーと暮らした18年に後悔はない。 彼女が病気になり、仕事を辞めた6年間もね。 (ワールドシリーズのチケットを友達にやり、デートをして)あの試合を見逃したことなど、何でもない。」 この映画で妻は最後まで(写真さえ)出てこない。 だが、ショーンの語る言葉でその姿や幸福な日々は鮮やかに甦る。 この映画は幼い頃にトラウマを負った一人の若者が、出会いの中で徐々に目覚めていく過程を追った、一種の教養小説のような映画だが、それ以上の映画になり得たのは、この不在の妻の存在、愛と信頼に満ちた幸福な日々の造形、が大きい。 この普遍的な力によってウィルは頑なな心を開き、自分にとって一番大切なものは何かに気づき、旅立つ、痛快な(だが、けして派手ではない)ラストシーンヘとつながる。 (この辺りは、歌が多くバックに流れているせいか、「卒業」('67)を思い出させる) この映画は人を愛することの大切さとすばらしさを静かに教えてくれる。 監督のガス・ヴァン・サントは急がず丁寧に登場人物の一人一人を描いている。 脚本は主演のマット・デイモンで、彼がハーバード大の授業で書いた戯曲を友達のベン・アフレック(この映画でもいい味を出してる)に見せ、共同執筆したものだが、実によくできてて 、才人だなと舌を巻く。また、繊細な演技で、主演も適役だ。 だが、やはりこの映画の最大の功労者は、ロビン・ウィリアムズだろう。 演技と共に、言葉の力をまざまざとみせてくれる。 名優だなと思う。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2017-02-27 19:39
2017年 01月 31日
こんなに激しく、魂を奪われる映画は滅多にないだろう。 私は京劇のファンでもなければ、中国の現代史に関心のある者でもなく、ましてや同性愛に興味のある者でもない。だが、それらを超えて、観る度に心を深く揺さぶられる。 物語の舞台は1924年から77年までの現代中国で、時代に翻弄される二人の男の出会いから別れまでが描かれている。また、一人の女をその間に置くことでさらに陰影濃くパースペクティブに描かれている。 まず始まりの、京劇の一座に多指症の我が子の指を切って預ける母親の凄まじい行為に驚くと共にハートを鷲掴みにされる。 少年は女郎の子と仲間から馬鹿にされるが、ただ一人、小石頭だけが彼を守り、少年はいつしか彼に思慕の念を抱くようになる。 この少年の表情がいい。そして自分のために罰を受けて外の雪中に立たされ、強がりを言いながら戻って来る小石頭に毛布を掛け、肌で温め一緒に寝る。 二人は京劇の師匠から猛特訓を受け、やがて頭角を表す。 この成長期の子役もいい。細面で女形がよく似合う。 そして真打ちのレスリー・チャンだ。 この映画はレスリー・チャンの映画だと言ってもいいくらい、乗り移ったかのような演技を彼はしている。所作が細やかで美しく、劇中の女形を超えて、本当に女になってしまったかのようなのめり込み様だ。 だが、どこまで行っても本当の女にはなれない蝶衣(レスリー・チャン)は母と同じ女郎あがりの菊仙(コン・リー)に小楼(チャン・フォンイー)を奪われ、やがて二人は結婚してしまう。取り残された蝶衣は阿片に染まって行く。(後に阿片中毒を断つ時のレスリー・チャンの迫真の演技は凄まじい!) 時代は満州事変、日本の中国進出、国民党の奪回、共産党政権の誕生と続き、時代の荒波に揉まれながら、三人は微妙な関係を保ち続ける。そしてクライマックスの文化大革命の人民裁判シーンでこの映画の頂点を迎える。 広場に連れ出された小楼は苦しさのあまり蝶衣や菊仙の過去を暴き、そして蝶衣も小楼や菊仙の過去を暴く。(このシーンは観ていてあまりに悲痛で、涙が出て来る) 菊仙はそのショックから、首を吊って自殺する。 最後はそれから11年後の、残された二人が久しぶりに「覇王別姫」を演じるシーンで、蝶衣も劇中の虞姫と同じく剣で自分を刺して死ぬ。 蝶衣は結局、少年の頃に抱いた純粋な思いや、自分自身を支えてくれた京劇への思いを最後まで全うし、殉じる。強くて真っ直ぐで激しい生き方だ。 それに比べ小楼は欲望に弱く、時には豹変し、ある意味人間的だが、蛇行しながら流され続ける。劇中では覇王で男性的だが、心はそうではない。 菊仙は狡猾で交渉ごとにも長け、男勝りのたくましさを備えた女だが、蝶衣への尊敬や気遣いも忘れず、可愛い所もある。だから最期が余計不憫でならない。 脇役や小道具の隅々まで意味が込められ、手抜きがない。また、それらが絡み合うよう構成されているので、とても重層的だ。 私が驚くのは、この映画が香港・中国の合作であるにも関わらず、日本の軍人をこれまでのようにステレオタイプ化して描くのではなく、むしろその後の国民党軍の方が品の無い行為をしたとする下りだ。また、青木(日本の軍人の長)がそのまま生きていたら、彼は(中国の文化を理解し)必ず日本に京劇を持ち帰ったろうと主人公(蝶衣)に言わせるシーンだ。文化大革命のシーンでは自らの歴史をも断罪する。 こうした従来の中国映画とは異なる歴史の描き方があるからこそ、薄っぺらでなく厚みと説得力がある。 同じ時代の中国を扱った映画に「ラストエンペラー」('87)があるが、それは西洋から見た中国で、どこかエキセントリックな物語だったが、この映画は内から見た中国で、重くて深い。3時間があっという間に過ぎて行った。 「覇王別姫」 アジア人にしか描けない圧倒的な映画だ。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2017-01-31 20:34
2016年 11月 30日
日本は素敵な国で、四季それぞれを味わうことができる。 春の次には夏が来て、その次には秋、そして冬がやって来る。冬は冷たく寂しい。だがそれが永遠に続くわけではなく、やがて春は必ずやって来る。 こうしてすべてを味わえるから、より多くのことが感じられ、一年がより味わい深いものになる。 それは人生に似ている。 この映画にもそれは言える。 主人公の青年ギルバート(ジョニー・デップ)はアメリカの田舎町の食料品店で働きながら、一家の大黒柱として重い知的障がいを持つ弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)、母、姉、妹と暮らしている。母は若い頃は町一番の美人だったらしいが、夫の突然の自殺で過食症になり、今は一人では動けないほど肥満し、家に閉じこもっている。兄はいるのだが、既に独立して関係は無い。 こうした出口無しの閉塞感をギルバート役のジョニー・デップは淡々と抑えた演技で終始演じる。だから余計彼の日常的な寂しさや空しさが静かに伝わって来る。 今や性格俳優として有名なジョニー・デップの演技としては意外だが、この映画にはとても合っている。 それに対し、ディカプリオの演技は天真爛漫で自由で、これまたすばらしい。 (初めて観た時は本当に知的障がい者が演ってるのかと思った) こうした状況の中、爽やかな一つの風が吹く。 トレーラー・ハウスが故障して、ベッキー(ジュリエット・ルイス)がこの田舎町にやって来る。そしてギルバートに初めてやすらぎの時が訪れる。 だが、弟や母を看る思いからギルバートは自由に羽ばたけない。 アーニーの18才の誕生パーティーの後、ベッキーは町を去る。それに時を合わすかのように母も亡くなる。母を見世物にしたくないギルバートは家に火をつけ、家ごと母を弔う。 それから1年後、姉妹がそれぞれの道に進むのを見届け、ギルバートは再びやって来たベッキーのトレーラーにアーニーと乗り込み、初めて自由の旅に出る。 この映画をどう評価するかは人によって異なるだろう。 ディカプリオの印象的な演技こそあれ、全体的に淡々として描写はおとなしい。 (ある意味、アメリカ的な映画でないのは、監督がスウェーデン出身だからかもしれない) では話は極めて自然かと言うと、結構シチュエーションやストーリーはエキセントリックで、寓話的要素も多い。 こうした体験や似たような境遇の有る無しで評価は大きく分かれる。 この映画を初めて観た頃、私は交通事故で脳をやられた父を看始めた。 それはこれから先何年続くかわからない旅の始まりだった。 大好きな父を看るのだからけしてつまらない旅ではないはずだが、それ以外のものを犠牲にする旅は(少し)残念だった。 自分自身と主人公を重ね合わせながら映画を観た。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この冬、久しぶりにこの映画を観た。 もう父は亡ない。認知症の母も施設に入り私の手から離れた。 ラストシーンが初めて自分自身と重なった。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2016-11-30 21:51
2016年 10月 31日
ボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれ、貰うか貰わないか話題になった。 丁度その頃、表参道を歩いていたら、ポスターの「ボディーライン」という文字が「ボブ・ディラン」に見えてしまった。どうやら私の頭も錯乱している。
ボブ・ディランの名前を初めて知ったのは小学4、5年の頃で、兄のとっていた雑誌に「風に吹かれて」の歌詞が出ていた。(だが、この歌を初めて聴いたのはPPMで、好きになったのはジョーン・バエズの歌だ。ディラン自身の歌はどこか間が抜けた感じで、あまりピンと来なかった) ディランの歌で最初にガツンと来たのは、やはり「Like a rolling stone」だ。 ロックに魂を売ったとフォーク・ファンから揶揄される曰く付きの曲だが、初めて聴いた時は、ロックというよりたゆとうリズムの荒削りな民族音楽のようで、その豊穣な音に驚いた。冒頭から激しく歌い叫ぶディランの声は、今の耳で聴けばラップの始まりのように聴こえる。 いずれにせよ、ディランは私の世代より少し前の、兄の世代とジャスト・フィットした英雄で、その分、私は(別に毛嫌いしたわけではないが、引け目を感じ、)積極的には聴かなかった。だから逆にいつかきちんとディランを聴きたい、そして理解したいと思っていた。 渋谷のイメージ・フォーラムでディランの半生を描いたドキュメンタリー「ノー・ディレクション・ホーム」(このフレーズは「Like a rolling stone」の一節だ)をやると聞き、すぐに観に行った。10年前の話だ。 この映画はディラン(1941〜)の生い立ちから66年のオートバイ事故辺りまでを扱っているので、彼の長い音楽キャリアからすると前半、というより最初の部分にあたる。だが、濃密な内容で、3時間半の上映時間は長くは感じず、飽きさせない。 ディランの生きた60年代のアメリカはベトナム戦争や公民権運動などで揺れた激動の時代で、彼の音楽もそれを色濃く反映している。つまり、このドキュメンタリー映画は一人の若者の青春を捉えると共に、激動のアメリカ現代史を捉えた映画でもある。アレン・ギンズバーグ、ジョン・ケルアックらのビートニクの詩人や作家、キング牧師、J.F.ケネディらがラッシュフィルムのように現れ、その時代が走馬灯のように振り返られる。 だが、それ以上に印象深いのは、デビュー当時のディランのピュアでナイーブな横顔だ。それはジョーン・バエズらにも言える。ひたすら自分に正直に、自分の音楽を追いかける姿は美しい。 それが、有名になり、多くのファンと敵ができるようになると、ディランの横顔にも苦悩と困惑の表情が増えていく。顔はその人の人生を反映すると言われるが、ディランの場合は特にそうだ。 ボブ・ディランはランボーやキーツと同じで、若くしてすべてを成し遂げた天才だが、オートバイ事故で死ぬことなく今もどこかで歌っている。 それはそれですばらしいことだが、やはりディランの真骨頂はその最初の前半生にあると思う。それをきちんと捉えたこのドキュメンタリーはとてもおもしろい。 ノーベル賞騒ぎでうんぬんする暇があったら 、ディランの歌に耳を傾け、歌詞を聴き、この映画を観る方がずっと価値があるだろう。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2016-10-31 18:16
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