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2016年 08月 20日
![]() この映画はたまたま家の近くのレンタルショップでDVDを見かけ、何の予備知識も無しに観た。そして深く感動した。もう20年以上前の話だ。 好みで言えば、同じ不条理に閉じ込められる劇でも「カッコーの巣の上で」の方が好きだ。(私はアメリカン・ニューシネマで育ったので、ハッピーエンドよりグレーなエンディングの方を好む) ただ、そういう偏屈な人間でも感動する普遍的な良さが、この映画にはある。
つまり、この映画にはHope(希望)がある。(最後はちょっとカッコよ過ぎるが・・・) ショーシャンク刑務所に妻と愛人殺しの罪でアンディ(ティム・ロビンス)がやってくる。そしてムショ暮らしの長いレッド(モーガン・フリーマン)と仲良しになる。 アンディは若くして銀行の副頭取にまでなった有能な人物で、人殺しはしていず、無実だ。だが、そういう状況下でも前向きに生きていこうと、刑務所内の図書館の充実や、自分の能力を発揮して所長や刑務官らの税務処理、資産運用のアドバイスをおこない、一目置かれるようになる。そして無学なトミーに勉強を教え、高校資格を得るまでに育てる。 だがある日、自分が無実である証拠をトミーから聞かされ、所長に再審請求を頼み込むが、逆にそれでトミーは消され、アンディは脱獄を決意する・・・ 好きなシーンはたくさんあるが、送られてきた古い書籍の中からアンディが「フィガロの結婚」のレコードを見つけ、図書室に鍵をかけてそれを聴きながら刑務所内に放送で流すシーンは優雅で愉快でとても好きだ。自由が支配に打ち勝つ瞬間だ。 レッドとアンディが再び出会う切っ掛けとなる大きなオークの樹の下のエピソードもなかなかおもしろい。 また、刑務所内で休憩中にアンディがぼんやりレッドに言う “記憶のない海” の話は、当時、交通事故で高次脳機能障害になり記憶がどんどん失われていく父親を看ていたので、忘れられない言葉だ。 “You know what the Mexicans say about the Pacific? They say it has no memory. That's where I want to live the rest of my life. A warm place with no memory.” (メキシコ人が太平洋を何て言うか知ってるかい? “記憶のない海” って言うんだ。 余生はそこで過ごしたい。 温かさに包まれながら、嫌なことはすべて忘れて) ティム・ロビンスは大柄なのに知性とナイーブさが感じられ適役だが、それにも増してモーガン・フリーマンが独特のいい味を出し映画を引き締めている。 監督のフランク・ダラボンはまったく知らなかったが、これが長編映画第一作とは思えない完璧さで驚きだ。新しいDVDには彼の解説も入っているので、それを聞きながら観るとまた違った発見もあり、おもしろい。 気分が落ち込んだ時、勇気が欲しい時にぜひ観て欲しい。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska2
| 2016-08-20 16:16
2016年 07月 20日
![]() その映画を好きか嫌いかはその人の人生経験や記憶が大きく作用している。 そう考えるようになったのは、大学院時代、研究室で私の映画の師匠のAとヌーヴェルヴァーグについて話をしていた時、彼が「トリュフォーの思春期」('76)は全然おもしろくなかったと言ったからだ。 実は私にとってトリュフォーのこの映画はツーンと来る映画だった。 特に、ジプシーの身なりをした少年が転校生でやってきてみんなとわんぱくをするが、ある日の身体検査で彼の身体に無数の傷跡が見つかり、家での虐待が明るみになるシーンでは深い胸騒ぎがした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は幼い頃、長崎でジプシーの兄妹と遊んだことがある。 昭和34、5年の、まだ原爆の傷跡が残っていた頃だ。(正確には近所の大人達が「あれはジプシーだ」と言ったからそう思ってるだけで、本当かどうかはわからない) ある日、私が住んでた町の山裾に掘っ建て小屋ができ、そこにある一家が住み着いた。 見たら、私とほぼ同じ年頃の、背格好も同じくらいの兄妹が遊んでいる。何の危惧も感じず一緒に遊んだ。 ある日、家に招かれ、ムシロでできた扉を開けてびっくりした。床が土のままで、所々に材木片が敷き詰められ、寝られるようにはなっているが、子供心に、この人達は大変な暮しをしているのだと思った。 すぐに家に帰って台所にあった大きな砂糖壷を抱えて再び戻り、新聞紙の上にぶちまけ、さあ、これを食べてと言って、壷だけ持って家に帰った。(なぜそんなことをしたのか、理由はわからない) 戻ってきた母親が壷の中を見てびっくりし、これを全部舐めたのか!と猛烈に叱られたが、黙ってしらをきり通した。(おかげで晩ご飯抜きにされた) だが、ある日、台風がやって来て、それが去った後、忽然と掘っ建て小屋は消え、家族も消え、兄妹の消息はわからなくなった。(大人達は隣町へ移ったらしいと言ってた) とてもショックだった。未だにその記憶は忘れられない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ だから初めて「泥の河」を観た時もツーンと来た。 最後の、主人公の少年が「きっちゃん」「きっちゃん」と郭舟を追いかけるシーンでは涙が止まらなかった。 だが、今の人が観てもそういう反応はしないだろう。時代が違うし、感性も違う。 平和だな、と思う反面、何かが失われてしまったと思わずにはいられない。 この映画には人情がある。 それを最も良く表しているのは、川べりでうどん屋を営む主人公の少年の両親で、田村高廣と藤田弓子が実にいい味を出しながら演じている。だから哀しい内容の話にも関わらずペーソスと温かさが常に底に流れている。 最後に少年はきっちゃんの残酷な遊びを止めようとして、この一家の秘密を見てしまう。 この瞬間の加賀まりこの表情は忘れられない。 生きて行くことの辛さと哀しさを少年は初めて知る。 そしてあのラストシーンだ。 原作の宮本輝の小説はこれがデビュー作とは思えない完璧な作品で、映画はこの小説をほぼ踏襲している。 もうじき71回目の終戦記念日がやってくる。 戦争の爪痕を残すこの深い小説の一読を薦める。 と同時に、この映画が一般DVD化され、多くの人の目に触れることを願う。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska2
| 2016-07-20 17:29
2016年 06月 30日
![]() 5月の連休中、施設にいるMが体調を崩したので、施設と家との間を往復した。 家に戻ってきても何もする気がしないので、ふとTVのスイッチを付けたら、その画面に釘付けになった。 私が前からつくりたいと思っていた空間が目の前にある。 しかも理想とするラフな感覚で。 どこなんだ?ここは?! 行ってみたい!! (だが、後で調べたら、これはドラマのためにスタジオ内につくられたセットで、海辺のドライブインのレストランの外観は実際の漁協倉庫の一部を改良して撮影し、収録後は再び元に戻されたらしい。ガッカリだった) 連休中に再放送を集中してやり、おかげでこの好きな空間を3日間たっぷり味わえた。 と同時に、このドラマ「コントレール」にのめり込んで行った。 物語は、6年前に夫を無差別殺人で亡くし、その後生まれた忘れ形見の子を育てながらどこか虚ろに暮らす主人公の文(あや)と、言葉を無くした孤独でいわくあり気なトラック運転手暸司(りょうじ)との出会いから始まる。実は暸司は無差別殺人の現場にいて、犯人と格闘する際に誤って文の夫を殺してしまい、そのショックで声を失ったのだ。 そうとは知らず、互いに孤独を打ち消すように逢瀬を重ねる二人。だが、やがて秘密は明らかになり、暸司は去る。 この辺りのドラマチックな展開は大石静らしい脚本だし、それを演じる石田ゆり子と井浦新もとても魅力的で、自然と引き込まれる。そして外光で陰影に富むドライブインの内部が映し出され、その度にさらに引き込まれる。 やがて文は無差別殺人を担当し、その後何くれとなく面倒を見てくれた刑事の佐々岡と再婚する。そして暸司とは別々の道を歩むことになるが、さらに波乱は起こる。 最後は元のさやに戻り、ドラマはコントレール(ひこうき雲)のように消えていく。 分別ざかりの無分別を期待した身としては、最後は少し淡々とし過ぎた感は否めないが、これが現実なのかもしれない。 だけど、だから無分別をと思う。 人間には安定性を好むタイプと不安定性を好むタイプの2通りがある。 私は like a rolling stone なので、一つの所に安住することを好まない後者だ。 今まで多くの失敗をしてきた。だけど、だからそれがダメだったとは思わない。 多くの失敗から多くのことを学んできた。だから今日の私がある。 成功か失敗かは結果でしかない。むしろそのプロセスの方が大事だ。 邪念や雑念を抱いておこなった場合は、結果はどうあれ、後悔することの方が多い。 後悔しないためには、邪念や雑念を振り払ってピュアに物事を視るしかない。 そうすれば結果はたとえダメでも受け入れることはできる。 これは人生のすべてに言えることだ。 だんだん話が「コントレール」から離れていった。 石田ゆり子はクセのない女優さんでどこかふわっとした感じが好きだ。 特に10年程前のウィスキーのCM 「女房酔わせてどうするつもり?」 はよかった。(このCMは中野良子のリメイク版だが、石田ゆり子らしさがよく出ていた) 復活してくれるとうれしい。
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by odyssey-of-iska2
| 2016-06-30 21:58
2016年 05月 21日
![]() 人の美意識はどのようにして生まれ育つのだろう。 私の場合、生まれた長崎の影響は大きい。また、家族の影響も大きい。時代の影響も大きい。出会った人、本から受けた影響も大きい。 その人本来の、というよりは、環境などの後天的要素が大きく影響して人の美意識はつくられるのだと思う。 だが、普段はそれをあまり意識することはない。 私がそれを初めて意識したのは、30才の時、9ヵ月間ヨーロッパを放浪した時だ。 嫌が上でも自分が日本人であることや日本人特有の美意識を保持していることを感じた。 それなら、日本の美意識が感じられる映画とは何だろう? そう思って考え始めたら、自然と「細雪」('83)に行き着いた。 この映画は大阪、船場の大商家に生まれた四人姉妹の物語で、原作は谷崎潤一郎の長編小説だが、それを昭和13年の春から冬の出来事に絞り、滅びゆく日本の美しさを描いた映画だ。 まず冒頭の、互いの名を「こいさん」(四女・妙子:古手川祐子)、「雪姉(きあん)ちゃん」(三女・雪子:吉永小百合)、「中姉(なかあん)ちゃん」(次女・幸子:佐久間良子)と呼びながら京都の嵐山のお座敷で繰り広げられる、姉妹のゆったりした音楽のような会話に聴き惚れる。この感覚は紛れもなく日本だ。 やがて遅れてきた長女(鶴子:岸恵子)も会話に加わり、それが一段落すると庭に出て花見が始まる。 このシーンは絶品で、映画のすべてが凝縮されたような映像だ。(最後に再び出てくる) 物語は雪子の縁談を縦糸に、妙子の男との騒動を横糸に進むが、そこに芦屋に住む分家の幸子と上本町に住む本家の鶴子とのさや当てや、ごりょうさん(鶴子、幸子)とその婿養子(辰雄:伊丹十三、貞之助:石坂浩二)の微妙な関係が絡み、最後は辰雄の転勤で鶴子一家が東京に出発し、貞之助の回想シーンで終わる。 だが、この映画は物語の筋を追うこと以上に、そこに流れる言葉や間合い、衣装、設い、調度品、風景を楽しみながら味わう映画だ。なぜなら、こうした世界をリアルに体験することは、私達はもうできないからだ。 この小説を谷崎潤一郎が書いてから既に70年、この映画が公開されてから30年以上の月日が過ぎた。その間に日本は戦争で破壊された。このように豪奢で耽美な日本は既にないし、このような映画に今後出会うこともないだろう。 私達はお手軽に京都や奈良に行き、日本を知った気分になる。だが、それは外国人が日本に憧れやってきて、日本を知った気分になるのと本当は大差ない。 日常生活のすべてから日本らしいディテールがなくなって久しい。 そしてそうしたことに危機感すら抱かなくなった。 たぶん、谷崎潤一郎は軍部の台頭に抗してこうした日本の最後の美を書き残したのだろうし、市川崑もこれが最後というタイミングで映画に残したのだろう。 小津の映画にも言えることだが、日本人特有の美意識は、こうした映画や小説の中にしか今は残されていない。 和モダンなどとチンケな流行り言葉で知ったかぶりして日本を消費されたくない。 和は元々モダンなのだ。
もっと本気で日本を愛し、日本人特有の美意識を取り戻したい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2016-05-21 19:28
2016年 04月 30日
![]() 大学時代、アメリカのニューシネマをたくさん観た。 そして、それがフランスのヌーベルヴァーグから影響を受けていることを知り、ゴダールやトリュフォーも観るようになった。 ゴダールは「気狂いピエロ」('65)を筆頭に、ラフで荒削りだがスピード感に溢れ、瞬発力と新しい発想で、それまでとは明らかに違う映画だと感じた。 だが、トリュフォーは映画愛好家がそのまま映画監督になったような、ある意味、古典的な映画の部分を引きずり、その分革新性に欠け、惹かれなかった。(それでも7、8本観た) 結局、「隣の女」('81)を観て、観るのをやめた。 だから「アメリカの夜」('73)を最近観るまでは、私の評価は極めて低かった。だが、この映画を観て思いはガラリと変わった。 この映画はとても実験的な映画だ。そしてそれは成功している。 舞台はカンヌの撮影所で、「パメラを紹介します」という映画を撮っているという設定で幕は始まる。そしてそれが紆余曲折の末に完成し、皆が別れるまでの顛末を描いている。いわば、楽屋裏の話やネタをそのまま見せているような趣向だが、どこからが演技でどこからが本当かわからないような虚実皮膜な所が多々あり、それが見所でもある。 トリュフォーも(フェランという名前だが)監督役で出ている。 そして役を演じているのだが、多くの本音も吐露している。 例えば、映画作りが佳境に入ってきて言う独白。 半分ほど終わった。 希望にあふれ撮影を始めるが難問が続出。 やがて何とか完成をとだけ願う。 これではいかん。 もっとやれる。 頑張れ。 まだ何とかできる。 全力で作品を生き返らせようとする。 “パメラ”も何とかなりそうだ。 皆が役に入り込み、スタッフの腰も据わる。 映画こそ王様。 後半で女に逃げられ役を降りるとゴネる主演俳優にはこう言う。 映画は私生活と違ってよどみなく進む。 言ってみれば夜の急行だ。 君や私のような者には幸福は仕事にしかない。 ものづくりの本音がここにはある。 ベテラン女優が自分のパートが終わって別れる時に、皆で記念写真を撮りながら言うセリフも印象深い。 面白い生活ね。 皆が一つ所に集まって仕事。 愛し合い、 やっと慣れた頃 とたんに皆が消え去る。 映画にはたくさんの俳優が出て来るので、誰が主人公か言うのは難しい。だが、印象的なのはパメラ役のジャクリーン・ビセットだ。彼女の登場で撮影の場は一段と華やかになり、その退場で終息し、やがて映画は終わる。 (ジャクリーン・ビセットの憂いを秘めた瞳はいつも魅力的だが、この映画では時々ボッティチェッリの名画を観ているような気分になる。また、彼女に演技を手ほどきする時のトリュフォーの手は、繊細でやさしい) 映画を観ていて、ふと、ある映画を思い出した。 ロバート・アルトマンの「ナッシュビル」だ。 アルトマンの名作はさらに混沌としていてジャジーだが、多くの人物が入れ代わり立ち代わり出てきて消えていくというアイデアは、案外この映画がヒントになっているのかもしれない。 また、映画の後半の監督の夢のシーンで、映画館に貼ってある写真を盗む幼い頃の話(トリュフォーの実話らしい)が出てくるが、ここから「ニューシネマパラダイス」が生まれたと想像するのは楽しい。 「アメリカの夜」という題名はフィルターをかけて夜のシーンを昼間に撮る映画の技法から来ている。フランス語の原題は「La Nuit américaine」、英題は「Day for Night」だが、日本での公開時は「映画に愛をこめて アメリカの夜」だった。 原題にはない頭の一言が加えられたのは(映画の宣伝効果をねらったのかもしれないが)この映画を観た配給元の率直な感想だったのかもしれない。 それほど、この映画には映画づくりに打ち込む人々の愛、そしてトリュフォーの映画への愛が感じられる。 初期の「あこがれ 」('58)「大人は判ってくれない」('59)「突然炎のごとく」('61)もいいが、それ以上に、成熟しても実験精神を失わないトリュフォーのこの映画が私は好きだ。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2016-04-30 00:13
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