お気に入りブログ
検索
以前の記事
2022年 11月 2022年 06月 2021年 10月 2021年 01月 2020年 08月 2020年 05月 2020年 03月 2019年 11月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 01月 2018年 10月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 05月 2013年 03月 2013年 01月 2012年 10月 2012年 08月 2012年 06月 2012年 02月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 08月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 03月 2011年 02月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 05月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 09月 2009年 06月 2009年 03月 2009年 02月 その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2015年 10月 07日
![]() 高松から戻った翌日、近藤喜文が作画監督した「おもひでぽろぽろ」('91)のDVDを借りて観た(2回目だった)。それから彼が初監督した「耳をすませば」('95)を借りて観た(初めてだった)。 この2つの作品には4年の隔たりがある。だが、どこかでつながっている。そういうことに気づくのも、やはり「近藤喜文展」を観て、彼の作法と努力を知ったからだ。 「おもひでぽろぽろ」の原作となった岡本螢作・刀根夕子原画の漫画を私は知らない。なので、このアニメが小学校5年当時しか扱っていない原作とは違って、それから16年後の27才のタエ子を創作し、その間を行き来しながら立体的なアニメを創造したことは解説を読むまでは知らなかった。 この方が多面的で間口も広がり、おもしろい。監督の高畑勳の構想力の勝利だ。
しかも高畑勳は近藤喜文に、小5のタエ子と27才のタエ子の違いや、回想シーンと現在のシーンの違いをきちんと表現するよう命じた。 だから回想シーンは周囲をぼかしてどこかファンタジックで、現在のシーンは部屋の設いや猫の動きなど細部にこだわりリアルなのだ。 だが、一番リアルで驚くのは、やはり27才のタエ子のほお骨の線やほうれい線の表現だ。しかも時には陰まで加えて強調する。ある意味これまでのアニメにはなかった表現で、禁断の領域に踏み込んでいる。(ただ、いつもこればかりではなく、従来のアニメの主人公のようにきれいな顔の線も多く出てくる。また、27才のタエ子の声は今井美樹なので、どことなく上品に中和されている) こうした時間の経過や時代背景へのこだわりは大したもので、たとえば始まりのシーン(1981年)のバックにYMOの「ライディーン」、回想シーン(小5)のバックに「ひょっこりひょうたん島」のTVがさりげなく流れる。これだけで主人公は私と同世代だということがわかり、親近感がわく。 こうした細部へのこだわりと日常性を保ちながら、物語は日本の田舎の農業の置かれた現状とタエ子の結婚というシリアスな問題をシンクロさせながら進む。(こうした進行は宮崎駿のアニメではけして無いので、高畑勲と近藤喜文のアニメの特徴がよく出ている) なのに最後だ。ベット・ミドラーの名作「ローズ」を日本語で唄う都はるみの歌をバックに、タエ子が心変わりして農家に嫁ぐ(だろう)シーンで終わる。 音声の会話はなく、歌だけで心を表現したのは見事かもしれないが、淡々としたシリアスなドラマが一辺でファンタジーに変わって終わってしまった。この辺がアニメの限界だろうか・・・ 「耳をすませば 」(この原作の柊あおいの漫画も私は知らない)も細部へのこだわりは凄い。始まりのシーンの駅の周辺(「Family Mart」の文字が妙にリアルだ)や主人公雫の住む団地、家族の暮らす部屋の様子や生活感がきちんと描かれている。 それは中3の雫の描き方にまで通底し、単なるかわいい女の子というより、サンダル履きの歩き方や足首の線など、子供から大人に変わっていく微妙な年頃の少女がきちんと描かれている。いわば、少5のタエ子から27才のタエ子へ変わる中間といった感じか。 また、それがあるからこそ最後の唐突な聖司のプロポーズ(おいおい、さすがに早過ぎるだろ?!)もなんとか受け入れることができるのだ。 でも、これも途中から展開が急になった上、結局はファンタジーで終わり、それまで築き上げた日常性はガラガラ崩れ去ってしまう。 それでも脚本、制作、絵コンテが宮崎駿なので、高畑勲とのコンビに比べ、物語の展開にスピード感があり、(アニメならではの飛躍や浮遊感もあって、)それなりにはおもしろい。 結局、近藤喜文は職人だった。 高畑勲、宮崎駿という個性の強いアニメ作家の下で彼ならではの仕事を成した。 全員が4番バッターでは野球はできない。バントや走塁のスペシャリストがいて、初めてきめ細かな野球はできる。 ただ、彼が独立して強い引力圏から解き放れた後、一体何を成すのかも見てみたかった。 細部へのこだわりを可能とする十分な時間と余裕を与えてやれば、もしかしたら、ちばあきおの「キャプテン」のような、主人公不在の、いや、弱い全員が主人公となるようなユニークなアニメが誕生したかもしれない。 そういう楽しい想いを残して近藤喜文は逝ってしまった。 #
by odyssey-of-iska2
| 2015-10-07 19:05
2015年 09月 10日
![]() 先日、高松に行った。 高松はFの故郷で、小さい頃から何度も祖父や祖母に会いに行った懐かしい都市(まち)だ。 一泊して用を済ませ、飛行機の出発までにはまだ時間があったので、美術館で時間を潰すことにした。香川県立ミュージアムでやっている「この男がジブリを支えた。近藤喜文展」を観に行った。 以前も書いたが、私はけしてジブリのよいファンではない。細部のディテールにこだわり、アニメを実写に近づけようとするやり方にはむしろ批判的で、もし余白の時間がなければ、この展覧会もけして観には行かなかったろう。 だが観て、思いはガラリと変わった。 まず入ってすぐの、「ルパン三世」の峰不二子の洒脱なスケッチの線の美しさに参った。 此奴出来るな!と思った。それから俄然スイッチが入って観た。 どの絵も上手い。瞬時に必要不可欠の線で躊躇なく描かれている。しかもその範囲は多岐に渡り、一つ一つの量も膨大だ。アニメの展覧会だからと軽く考えていたのが間違いだった。これは心して観なければならないと覚悟した。 展示は彼が関わったジブリ以前の作品からほぼ時系列にそって並んでいる。
順番にあげると、「草原の子テングリ」「未来少年コナン」「赤毛のアン」「トム・ソーヤーの冒険」「名探偵ホームズ」「リトル・ニモ」「愛少女 ポリアンナ物語」「愛の若草物語」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「魔女の宅急便」「そらいろのたね」「耳をすませば」「紅の豚」「海がきこえる」「平成狸合戦ぽんぽこ」「もののけ姫」である。 錚々たる作品群である。 この間に、企画したが実現しなかったボード集が並ぶ。それらを観て行くと、ヒロインの女の子が意外とセクシーで肉感的だったりして、近藤喜文は実はもう少し大人寄りのアニメ、肉体的な表現も加味したアニメを目指していたのでは、とふと想像してしまう。でも、彼の絵には品がある。大人のアニメをつくったとしても、必ずほどよく抑制されたものになっただろう。 アニメの仕事の合間に喫茶店や路上で見かけた人々の丹念なスケッチも残しているが、日頃からこうした努力を怠らなかったと共に、その線からは誠実な人柄が伝わってくる。 私は長い間、「火垂るの墓」は本当はもっと凄いアニメになるはずだったのに、なぜあんなにおとなしいアニメなのだろう、と高い世評とは逆に疑問に思っていた。野坂昭如の原作の小説から受ける印象とはあまりに違っているからだ。 だが、展覧会を観て少し疑問が解けた。監督の高畑勳は反戦を声高に言うのではなく、空襲で焼け出された幼い二人の孤立していく過程をリアルに描くことで、現代の若者にも共感してもらい、考えてもらいたかったと語る。そして「日本人をちゃんと描こう」と作画監督の近藤喜文に求める。 こうした経緯があるからこそ、抑制されたリアリズムのアニメとなったのだろう。 こうした二人の取り組みは、「おもひでぽろぽろ」でさらに過激になる。 ごく普通の日本人をありのままに登場させようとし、主人公のタエ子の顔にほお骨の線やほうれい線を加え、27才の女の顔をきちんと描くことにこだわる。 そのため、彫刻家の佐藤忠良を尋ねて話を聞いたり、キャラクターのモデルとなった今井美樹のビデオを何度も止めて模写したり、残された近藤喜文の膨大なスケッチからは半端ではない意欲と葛藤が伝わってくる。 ・・・・・・・・・・・ いつのまにか閉館時間となり、最後の方は駆け足で観た。 カタログを買い、空港に向かう車中やロビー、飛行機の中でずっと読んだ。 翌日、「おもひでぽろぽろ」のDVDを借りて観た。 以前観た時はほとんど素通りしていた部分に妙に熱いものを感じた。 実写ならば名優が十秒で演じてしまうシーンを、その何万倍もの時間をかけてかけがえのないものをつくろうとする人達がいる。 ジブリは宮崎駿、高畑勳、鈴木敏夫だけのものではない。 こういう縁の下を支えてきた人がいるからこそ多くの名作は生まれたのだ。 近藤喜文。 永つまでもその名を憶えておこう。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2015-09-10 23:01
2015年 07月 31日
![]() 「ルンタ」を観た。 「ルンタ」とは風の馬を意味するチベット語で、2009年以来増え続けるチベットでの焼身自殺(正確には中国政府の弾圧に対する焼身抗議)を扱った映画だ。 だが、それ以上に私にはこの映画は特別な映画だ。 映画の語り部として終始登場する中原一博がかつてよりよく知る仲間だからだ。 彼の人生史を垣間みるようで、観ていてとても興味深かった。 中原と出会ったのはいつの頃か正確には覚えていない。たぶん、大学院の吉阪研時代に学部生だった彼が研究室にやってきて話をしたのが最初だと思うが、もしかしたらその後ヨシザカが亡くなり、高田馬場に先輩達が借りてた部屋で会って話をしたのが最初かもしれない。 中原は文学部を卒業した後どういうわけか建築学科に学士編入してきた変わり者で、学年は私の方が上だが、年は彼の方が2つ上だ。物怖じせず何でもズケズケ言う性格で、その頃から放浪癖があり、型に嵌まらない生き方をしていた。 彼が80年代の初めからチベットや北インドに行って、ダライ・ラマの建築家として亡命政府の建物をこつこつつくり始めたのはよく知っている。日本に戻って来る度に「金が無いからカンパしてくれ!」と言われてみんなでよくカンパした。そのうち、下級生の可愛いMちゃんと結婚してダライ・ラマのいるダラムサラに移住してしまった。 一家で久しぶりに日本に里帰りした時みんなで山中湖にキャンプに行ったが、その時二人の小さな子供達が示した行動は衝撃的だった。いつのまにか木に登り、虫を見つけると澄んだ目でジーと見つめ、やがてアーンした。自然と同化しながら遊ぶ姿は日本の子供とは明らかに違っていた。 その子供達をMちゃんはインドで産んだが、その理由が病院での出産代が日本より断然安いから、というのも驚きだった。旦那だけでなく女房も子供ももう完璧に向こうの人だ。 中原は亡命政府の建物や学校、僧院などの設計、建設に立ち会った後、チベットからインドに亡命してきた元政治犯を支援するNGO「ルンタプロジェクト」を立ち上げ、自ら資金を集めて彼らの学習、就労支援をおこなうルンタハウスを建設する。 さらにチベット人の非暴力の闘いを発信するサイトを立ち上げ、焼身抗議が始まってからはすべての焼身者の詳細なリポートを発信し続ける。 監督の池谷薫と中原との出会いは、四半世紀前のダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞した時のダラムサラで、ドキュメンタリーTVの撮影が切っ掛けだという。それ以来、池谷は中国政府の弾圧で悪化するチベット状況をドキュメンタリーで撮ろうと試みるが、撮影許可や資金難で何度も挫折する。だが、焼身抗議が始まり待ったなしの状況で撮影を決行する。 このドキュメンタリー映画は、外見はとても恰好いいとは言えないとっくに中年を過ぎた二人の男が手を組み、熱い心と武骨な善意をひた隠し冷静を装いながら淡々と撮った映画だ。 前半はダラムサラ、後半はチベットで撮影されたが、特に後半のチベットの遊牧民達の生活と美しい自然は印象深い。 私はこの映画を観て、初めてチベットとモンゴルは大平原を通じて繋がっているのだということを知った(というか、実感した)。 だが、1949年に中国共産党は国民党との内戦に勝利するとすぐにチベットに侵攻し、非暴力で無抵抗だったチベット人から自由を奪う。そして59年に生命の危機にあったダライ・ラマがインドのダラムサラに亡命すると、自治区の名の元に中国に併合してしまう。 もちろんチベット人に自治は無い。それどころか遊牧を禁止して都市への定住化を計り、チベット語を禁止して漢語を浸透させようとする。そして漢民族の移住を積極的におこない、経済の力でチベット人の伝統と生活を破壊する。 こんな理不尽なことをされたら、私だったら自爆テロか自由な国への亡命しか考えない。だが、チベット人はダライ・ラマの教えをひたすら守り、仏の力で心の平和を保つ努力を続ける。その崇高な魂と品性の高さには驚嘆と尊敬を禁じ得ない。 映画からはこうしたチベット人の置かれた現状と困難さがヒタヒタと伝わってくる。 やがてそれは彼らへの共感と現状打破の願いへ変わって行く。 最後に誰もいない谷で叫ぶ中原の言葉は、映画を観るほとんどの人の心を代弁している。 映画に合わせて中原が来日したので、仲間内で彼を囲む会があった。 久しぶりに会う中原は昔とまったく変わっていなかった。 ぶっきら棒で、饒舌で、話し下手で、それでいながらズケズケ言う。 いつ死んでもいいような生き方をしながら、それをどこか楽しんでる風がある。 カッコいいぜ、中原! お前は吉阪研のヒーローだ また会おう それまで死ぬなよ
#
by odyssey-of-iska2
| 2015-07-31 20:31
2015年 06月 30日
![]() 私は黒沢が監督した全30作中14作品しか観ていない。 なので、黒沢を語るにはふさわしくないし、語りたいとも思わない。既に多くの人が語っているし、その焼き鈍しを一つ増やす程の暇人でもない。そう思っていた。 だが、もし語れるとしたら、それは「羅生門」('50)しかないと思っていた。 ある時、ニュースで「羅生門」がデジタル復元技術で完全修復されるという話を聞いた。その出来は凄いらしいとのことで、とても興味を持った。それをひょんなことから手に入れ観た。確かに画像、音声共すばらしかった。 学生時代に池袋の文芸座の黒沢週間に通い詰めして立て続けに観た頃を思い出した。 この映画は今観てもアブストラクトでモダンだ。 黒澤の他の映画が、例えば、血湧き肉躍る「七人の侍」('54)やユーモアが絶品な「椿三十郎」('62)、ヒューマニズムが強く伝わる「生きる」('52)や「赤ひげ」('65)が、名作なのにどこか古臭く感じられるのに対し、この映画は今の時代にも十分通用する新鮮さを持ち続けている。それはなぜだろう。 この映画は芥川の「藪の中」をメインに、その前後を同じく芥川の「羅生門」で挟みつくられている。(だから話の中身から言えば「藪の中」だ。だが、それだけでは映画として短かすぎるのでそうしたと黒澤は後に語っているが、結果的にはより謎が深まり、パースペクティブになった) 登場人物はわずか8人で、そのうちの3人(死んだ侍、その妻、盗賊)の言うことがすべて食い違い、おまけにその様子を見ていたという杣(そま)売りの言葉も違っているという、一種の不条理劇で、結論が一つではなく多面的な解釈を許す所がそれまでのどの映画とも違い独創的だ。なおかつこの種の映画でこれを超える映画はその後も無いので、未だ新鮮この上ない。(アラン・レネの「去年マリエンバートで」('61)はこの映画に触発され生まれたが、シュールではあるが面白さの点では「羅生門」の方が上だ) 俳優は(この頃の映画に多い、少し早口で棒読み的な部分も多少はあるが)皆健闘している。中でも侍役の森雅之の格調、その正反対の野卑な盗賊役の三船敏郎の荒々しくダイナミックな演技は映画を十分面白くしているが、それ以上に凄いのが妖艶で変幻自在な京マチ子の演技だ。彼女の体当たりの演技がなければこの映画の主題である人間存在の不可解さとエゴイズムをここまで深く描けなかったろうし、黒澤映画には珍しいエロスも感じることはなかったろう。 黒澤はジョン・フォードを敬愛し、「駅馬車」('39)が大好きだったので、同じように血湧き肉躍る映画が多い。また、「怒りの葡萄」('40)や「わが谷は緑なりき」('41)などの影響でヒューマニズムの強い映画も多い。 50年代、60年代の映画は皆白黒だが、どれもが傑作だ。 だが、カラーで撮り始めた「どですかでん」('70)辺りから構成力が衰え始め、「影武者」('80)「乱」('85)はまるでロココを観ているような、美しいのだが美学だけで撮ってるような、そんな気がした。 「羅生門」は51年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞に選ばれ、そこから世界のクロサワが始まった。今の私達には想像がつかないが、敗戦後の打ちひしがれた日本に湯川秀樹のノーベル賞と共に最初に元気を与える出来事だった。 (それを抜きにしても、)「羅生門」は未だに日本が世界に誇る独創的でとてもモダンな映画だと思う。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska2
| 2015-06-30 19:53
2015年 05月 08日
![]() ドキュメンタリーと映画の境い目を考えていたら、サタジット・レイの「大地のうた」('55)をもう一度観たくなった。 この映画は岩波ホールで以前観たことがあるが、徹夜明けで途中で眠くなり、一部が記憶から抜け落ちている。 で、一念発起し、5月の連休はオプー三部作(「大地のうた」('55)「大河のうた」('56)「大樹のうた」('59))を借りて観た。 「大地のうた」は3年の歳月をかけてつくられたレイの処女作で、インド・ベンガル地方の小さな村の一家の物語だ。ほとんどの俳優が無名もしくは素人で、インドのモンスーン気候の自然がきめ細かく捉えられ、初めて観た時はドキュメンタリーの香りがした。 だが、今回改めて観ると、やはり物語の要素は強く、レイの視点も改めて感じる。 好きなシーンはいくつもあるが、とりわけ幼いオプーと姉のドゥルガが背丈よりも大きいススキ野原を駆け抜けて蒸気機関車が走るのを見に行くシーンは好きだ。列車の猛烈な音とその車輪越しに二人を捉える映像は迫力があり、レイの才気を感じる。 また、蓮池のほとりで雨の中ドゥルガが長い髪を振り回しながら踊るシーンも素敵だ。 だが、自然に帰るように亡くなった親戚の老婆だけでなく、この時引いた風邪が原因で若いドゥルガも死んでしまう。 台風で家も壊され、良いことのほとんどなかった村を両親とオプーは牛車に揺られながら去る所で第一部は終わる。 「大河のうた」は三人がベナレスに着いて生活を始める所から再び始まる。 いきなりガンジス川のほとりにあるガート(大階段の沐浴場)やそこに佇み遠くを見つめる老婆が映され、インド特有の空気に引き込まれる。 父が経典を唱えて得るわずかなお布施で暮らしていた三人だが、その父も肺炎で亡くなり、母とオプーは叔父の住む小さな村へ移り住む。オプーの学問の才能に気づいた校長の計らいでオプーはコルカタ(カルカッタ)の大学へ行けることになるが、母は反対する。だが、結局は折れてオプーはコルカタへ移り、印刷所で働きながら大学へ通う。次第に疎遠になる母と子の絆。この辺りの母親の寂しさと諦念は観ていてひしひし伝わってくる。 だがその母も病いで亡くなり、悲嘆にくれながらオプーは村を去る所で第二部は終わる。 第一部、第二部はインドの自然とそこに住む人々がそのまま淡々と描かれているが、第三部はオプーの人生とその物語に焦点が合わされ、より深い人間ドラマとなっている。 「大樹のうた」はオプーが大学を辞めて社会に出る所から始まる。と言っても父と同じで、もの書きを目指した生活は楽ではなく、心配した級友のプルーが訪ねてくる。そして従妹の結婚式にクルナに行こうと誘う。そしてある偶然からオプー自身がその美しい従妹オプルナと結婚することになる。 このオプルナ役のシャルミラ・タゴールが本当にすばらしい。美人で可愛いだけでなく、気品がある。 裕福な家庭で何不自由無く育ったオプルナは貧しいオプーの家へ来て初めて一人泣くが、以降はオプーを気遣い、気丈に振舞う。それに気づき、後悔していないかと尋ねるオプー。 この辺りの会話がとてもいい。 「探してくる。使用人を」 「待って。バカなことしないで」 「どけよ」 「お金がかかるわ」 「家庭教師を増やす」 「なら、実家に返して」 「なぜ?」 「今でさえ夜遅いのに、これ以上増やすなんて」 「しかたない」 「逆にして。お仕事減らしてくれない?」 「どうして?」 「そうしたらあなた早く帰ってくる。私、“後悔“しなくてすむわ」 こんなことを言われたら、男ならみんな参ってしまうだろう。 朝の目覚まし時計を止めようとしたら二人の夜着が結ばれてて動けず、ほどきながらいたずらしたオプーをポカリとやるオプルナ。 そのオプーがニンマリしながらベッドでタバコを吸おうと箱を開けると、中から出てくる「食後1本ずつ、約束よ」のオプルナからのメッセージ。 オプーが帰ってくるのを確かめると、紙風船を膨らませ、まちぶせしてパーンとやるオプルナ。 食事は代わりばんこに団扇を扇ぎながら涼を取り食べるオプーとオプルナ。 オプルナに英語を教えながら微笑むオプー。 荷馬車の中の二人の会話、着いた駅での二人の会話。 オプルナからの手紙を読みながら思わず微笑むオプー・・・ こんなに楽しげな結婚生活を描いた映画を私は他に知らない。 それがカースト制や男尊女卑の風習がまだ色濃く残っていた時代のインドで撮られたことに驚きを禁じ得ない。 レイの女性や子供に向けられた人間性と愛情、先見性に心を打たれる。 だからオプルナが男の子を早産したために亡くなったことを聞いた時のオプーの悲劇に余計呆然とする。 作家になる夢を捨て、放浪の旅ヘ出るオプー。 地方を転々としながら挙げ句の果ては炭鉱夫にまで身をやつす。 それを聞いて心配し、子供に会うようオプーを説得するプルー。 だが、会っても5年の歳月の親子の空白は埋まらない。 最後はその別れのシーンだが、ここで親子の間に微妙な化学反応が起こり、初めて心が交わる。 「何だい?カジョル」 「おじさん、だれ?」 「君の友達・・・ 一緒に来るかい?」 そして我が子のカジョルを肩車し、微笑みながら二人は歩き始める。 この物語の始まりはオプーが生まれるシーンだった。最後でオプーは見事にカジョルと重なり、その営みは輪廻のように受け継がれて行くことが暗示される。 多くの人の死が描かれているが、その死さえもこうした輪廻の一部に過ぎないと言ってるかのようだ。 インドの自然と共に、人物の光の陰影の濃い映像が印象的だ。 バックに流れるラビ・シャンカールのシタールの音色はガンジスの流れのようだ。 今の浅薄な時代ではもうけしてつくることのできない骨太な映画で、多くの人に観てもらいたい。 かずま #
by odyssey-of-iska2
| 2015-05-08 17:08
|
ファン申請 |
||